(「アメリカの首都で『道草』【中】」からの続き)
世界最大の国内総生産(GDP)を誇るアメリカの首都ワシントンの通勤客を運ぶ大役を担いながら、運転するのは1日わずか4往復、しかも平日以外は走らないメリーランド州運輸局傘下の近郊鉄道、MARCブルンズウィック線。ワシントンの玄関口ユニオン駅を午後4時25分に出発した郊外への始発列車の乗客はまばらだ。しかし、車内には併走する地下鉄のワシントンメトロ(詳しくは「またまた『川崎さん』!」)のレッドラインとの“駆けっこ”の行方を熱い視線を送る鉄道愛好家の少年がおり、“鉄分”が豊富な空間が待ち受けていた。
▽地下鉄の乗車をせがむ
「次のシルバースプリング駅(メリーランド州)で降りてワシントンメトロのレッドラインに乗り換えれば、メトロでロックビル駅(メリーランド州)まで行くことができる。ロックビル駅からジャーマンタウン駅は路線バスを使えるよ」と少年がせがむ声が耳に入った。母親は「でも、ジャーマンタウン駅までの切符を買ってしまったし、バスに乗って着くのが夜遅くになるのは嫌だし」と話し、少年をなだめていた。その少年が私とは正反対にワシントンメトロに乗るための「道草」を目論んでいると知り、私は心の中で共感した。
私はワシントン中心部の勤務先からメリーランド州ロックビル市にある拙宅までレッドラインの電車1本で行き来できるところを、あえてメトロと乗り継ぐ途中でMARCを利用し、いわば正三角形の1辺を移動する代わりに2辺を通る「道草」を選んだ。
これに対し、少年はユニオン駅からシルバースプリング駅までMARCに乗車した後、併走するレッドラインで戻って出発したユニオン駅を経由し、私がMARCを降りるロックビル駅へ向かうことを提案していた。いわば正三角形の2辺を通る代わりに、1辺を往復して隣の1辺を通って向かう計3辺を経由する方法だ。
▽「北北西に進路を取れ」
「行動力がある頼もしい息子さんですね!私も息子さんの気持ちがよく分かりますよ。ぜひ願いを叶えてあげてください」。そんな風に少年を“援護”してあげたいという誘惑にかられたが、会話を盗み聞きしていたように思われるのも嫌なので口出しするのを避けた。
「もうシルバースプリング駅に着いてしまうよ」という少年に母親はため息をつき、あきらめさせた。少年は代わりに私の前の座席に来て、窓外の景色を熱心に眺めることに集中した。私も車窓の写真を撮っていたので、おそらく同じ趣味なのを感じ取ったのだろう。
シルバースプリング駅を出発した列車はワシントンメトロレッドラインの線路を越え、て「北北西に進路を取れ」というアメリカ映画のタイトルさながらの動きを見せた。木立に囲まれた住宅地を駆け抜け、点在する踏切を通る前は注意を促すためにディーゼル機関車が「ポー」という味わい深い警笛を鳴らす。
世界一の経済大国の首都から列車でわずか15分ほどの距離に、自然が豊かで静寂な空間が広がっているのにつくづく驚かされる。国土の広さに裏打ちされた余裕と呼ぶべきだろうか。
▽四半世紀前に大惨事
しかし、そんな落ち着いた空間とは想像がつかない惨事が四半世紀前に起きた。この路線は貨物鉄道のCSXトランスポーテーションが保有しており、自社の貨物列車を走らせているほか、線路を借りて運行しているMARC、全米鉄道旅客公社(アムトラック)のワシントンと中西部の大都市シカゴを結ぶ寝台列車「キャピトルリミテッド」が行き交う。
雪がちらついていた1996年2月16日夕方、MARCブルンズウィック線のワシントン・ユニオン駅行きの列車と、反対方向のアムトラックのユニオン駅発シカゴ行きキャピトルリミテッドが正面衝突し、乗客と乗員計11人が亡くなった。
この区間は複線になっている。しかし、事故当時は貨物列車を通すため、MARCとアムトラックは接近しながら同じ線路を走っていた。MARCの運転士が注意信号を見落としたために次の停止信号に間に合わず、アムトラックと衝突してしまった。
▽西部開拓時代にタイムスリップ?
列車は次のケンジントン駅(メリーランド州)に定刻の午後4時44分に滑り込んだ。緑色の木造駅舎はまるで西部開拓時代に建てられた小屋のような趣で、まるでワシントンの中心部から列車に20分弱揺られただけで19世紀後半にタイムスリップしてしまったかのようだ。
駅の近くには大手自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ(GM)のブランド「シボレー」の年代物の乗用車が売られている。アメリカ人の友人と来た時に見つけ、「FOR SALE(売ります)」と記されていたため「君のマイカーにどうだい?」と薦められた。私は「素敵な車だが、うちのショーファー(運転手)はAT(自動変速機)車限定の運転免許証だから乗れないんだ」と妻の免許証事情を説明した。
友人は日本にAT車限定の運転免許証があることにたいそう驚いていた。私は手動変速機(MT)車にも乗れる運転免許証を持っているが、とうに“賞味期限切れ”だ。勤務先の本社経済部で自動車業界を担当していた12年前、アルファロメオの試乗会に参加したところMT車しかなかった。
運転席に乗り込んだものの、操作方法を間違えたため走り始めて30秒ほどでエンストした。洗車係だった大学生が自動車部だと聞いていたので、「悪いけれども運転してもらえる?」と懇願。私は助手席からハンドルさばきを眺める同乗者となっていた…。
列車は駅で2人の利用者を乗せると走り出した。やがて対向の線路を駆ける長大なCSXの貨物列車とすれ違った。鉄道愛好家の少年も、身を乗り出すように眺めた。
私の目には貨物列車が我が物顔で通り抜けるように映る一方、乗っているMARCの旅客列車はどこか肩身が狭そうに感じた。これはCSXが線路を所有しているのを知っているゆえの先入観だろうか?
▽車掌の意外な言葉
再び左手にワシントンメトロのレッドラインが合流し、乗車していたMARCの列車がロックビル駅に着いたのは午後4時53分。この駅の発車時刻の3分前だった。私が列車を降りた後、少年と母親も降りてきた。下車してワシントンメトロを見たいという願いが受け入れられたらしい。良かった、良かった。
列車が発車する様子を動画に収めようとプラットホームの先頭に向かうと、途中で男性車掌に呼び止められた。この駅で乗り込む乗客と勘違いされ、早く乗るように促されるのかと思い、「今この列車から降りたところなんです」と言うとそれは先刻承知だという表情を浮かべ、意外な言葉が返ってきた。
「発車する前にあの機関車の窓から運転士が顔を出し、こちらを確認するからその写真を撮ってやってくれ!」。出発前のホーム確認をする運転士の仕事ぶり、というプロ目線からの写真の構図のアドバイスだったのだ。私は「分かった、そうするよ」と親指を立てると、車掌はほほ笑んだ。
予告通りに運転士が窓の外からこちらを眺め、発車準備が整ったのを確認して手で合図をした。機関車が「カンカンカン」という鐘の音を鳴らしながら、列車がホームから離れていった。その様子を前の座席にいた少年も、反対側のホームでカメラを向けている別の少年たちも熱いまなざしで見守った。
マイカーが中心の自動車社会のアメリカにありながら、“鉄分”が濃い愛好家たちが集い、理解を示してくれる鉄道員がいる空間。そんなほほえましい光景が、平日に4往復だけが走るMARCブルンズウィック線の沿線で繰り広げられているとは。運賃はMARCとワシントンメトロを合わせて10ドル(約1050円)と、ワシントンメトロで直行した場合(3ドル85セント)の3倍近くを要したが、超過分の元を十分に取れる貴重な「道草」体験ができた。
(「アメリカの首都で『道草』」完)
(連載コラム「“鉄分”サプリの旅」の次の旅をどうぞお楽しみに!)