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旅の扉
- 【連載コラム】すべて知りたい!カナダ・ニューファンドランド島
- 2019年3月1日更新
ジャーナリスト:平間 俊行
すべて知りたい!カナダ・ニューファンドランド島 vol.9 コッドが消えた日
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- 「バカリャウ」とジャガイモのグラタン
- そしてコッドは「バカリャウ」になった
「バカリャウ・コン・ナタス」というポルトガル料理がある。日本語で説明すると「タラとジャガイモのクリームグラタン」。「バカリャウ」とは、あのコッドから作られる干し塩ダラのポルトガルでの呼び方だ。ほぐしたコッドにほんのり残る塩味と、とろけたチーズの塩味が淡白なジャガイモやクリームとからみ合い、実にいい味に仕上がっている。
バカリャウはポルトガルの国民食とも言われ、365日違ったバカリャウ料理を出すことができるそうだ。それほどまでにバカリャウが食べられてきたのは、ニューファンドランドの豊富なコッド資源のおかげと言ってもいい。もちろん、別の海域でとれたコッドも食べられてきたのだろうが、昔からニューファンドランドこそが世界有数のコッドの漁場なのだから。
コッドの身はほとんど脂肪がないので、塩をして干し上げるとカチンカチンの白い板のようになる。日本でも干しダラとか棒ダラといった保存食があるが、大航海時代、バカリャウは長い航海を可能にする優秀な保存食として重宝された。
乾燥しているので腐らない。軽くてかさばらないから船にたくさん積める。水で戻せばふっくら元通りになる。大航海時代を通じ、バカリャウはポルトガル人にとってどんどん身近な存在になっていったのだろう。そしてポルトガル船の「大航海」によって、バカリャウは世界中に広まっていくのだ。
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- 「バカリャウ」のコロッケ
- 世界を駆けるコッド
中国のマカオにはバカリャウ料理がたくさんある。「馬介休」と書いてバカリャウなんだそうだ。何となく読める。
世界史の授業で習ったように、ポルトガルはアフリカ大陸の西側をつたいながら南端の喜望峰を回り、インドのゴア、マラッカ海峡と進出してついに中国のマカオに到達する。この流れの中でヴァスコ・ダ・ガマなんて名前も出てくるのだが。
とにかく、ポルトガルがバカリャウを船に積んでアジアに進出したことにより、マカオには馬介休=バカリャウ、つまり僕が愛してやまないニューファンドランドのコッドが伝えられた。
ちなみにポルトガルの世界進出は、あのジブラルタルの目の前、地中海をはさんだアフリカ大陸、モロッコの「セウタ」という街を攻略したあたりから始まる。ジブラルタルもセウタも実に興味深い場所なのだ。
そうやってポルトガルが到達したマカオでは、 バカリャウのコロッケとか、あのクリームグラタンも食べられるそうだ。それにしても、ニューファンドランド沖のコッドが帆船に積み込まれてアフリカ、インドを回ってアジアにまでたどり着くなんてすごい話だ。
冷蔵庫も何もない、積み込む食料といっても塩漬け肉やビスケットなどすぐに腐ってしまうものばかりという時代だ。コッドが存在したからこそ、壮大な航海が可能になったのだ。
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- ブラジルにもある「バカリャウ」料理
- ブラジルにも「バカリャウ」
上の写真は、ニューファンドランドの博物館に展示されていたブラジルのサラダの写真だ。ちょっと不鮮明で申し訳ないが、バカリャウとジャガイモを混ぜ合わせ、ゆで卵とオリーブを散らしている。バカリャウはポルトガルによってブラジルにも伝えられている。
ただし、南米大陸に進出したのはスペインだというイメージはないだろうか。インドを目指したコロンブスが「新大陸」に到達したとか、コルテスがアステカ王国を征服したとか、ピサロがインカ帝国を滅ぼしたとか。
こうしたスペインの動きによって、ジャガイモやトウモロコシやトマトがヨーロッパはじめ世界中に広がり、スペインが牛や馬をアメリカ大陸に持ち込んで、のちの時代にカウボーイが生まれる遠因になっていくとか、そんなストーリーもあるのだが、それはともかく。
カトリックの国であるスペインとポルトガルは庶民の食料、そして「肉断ち」の日の食料としてニューファンドランドのコッドを求め、そのコッドを船に積み込んで大航海時代へと突き進んでいった。やがてそれは進出先での両国の衝突につながったようで、最終的にはローマ教皇が出てきたり、条約を結んだりして大西洋上に子午線、つまり南北に縦線を引き、東はポルトガル、西はスペインということで折り合ったそうだ。
そうした過程で南米大陸でもブラジルだけはポルトガル、ほかはスペインということになったようで、まあ、両国で勝手に世界を二分することにしたらしい。ポルトガル船には「バカリャウ」が、スペイン船にはちょっと呼び方が違う「バカラオ」が積み込まれ、それぞれが東と西に船を進めていったのだ。
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- 種子島火縄銃南部鉄砲隊(写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟)
- 織田信長の運命は
ヨーロッパの西端、イベリア半島から東へ向かったポルトガルは、アフリカ、インド、中国を経て、戦国時代の日本にやってきた。1543年、ポルトガル船によって種子島に火縄銃が伝来し、フランシスコ・ザビエルはポルトガル国王の依頼を受けてインドのゴアに派遣されたのち、1549年に初めて日本にキリスト教を伝えている。
僕なんぞは、フランシスコ・ザビエルもやっぱりバカリャウを食べたのだろうかとか、バカリャウがなかったら鉄砲が伝来せず、すると鉄砲の凄さをいち早く認識したとされる織田信長の運命も変わったのだろうか、などと想像してしまう。
それに、バカリャウはマカオまでしっかりと伝わっているのだから、ついでに日本にもバカリャウが持ち込まれていた、なんて資料がどこかに残ってはいないだろうかとも思う。「南蛮人も干し鱈を食べている」なんて記述があったりすると本当におもしろいのだが。
南蛮と言えば、その後、長崎の平戸にポルトガルの商館が置かれ、いわゆる南蛮貿易が始まる。その結果としていろいろなポルトガル語が日本語になったのはご存知の通りだ。ボタン、カルタ、カステラ、コンペイトウ、チャルメラ、ジョウロ、マント、オルガン、パン、シャボン、タバコ、テンプラ、ビロード、などなど。
こんな話の裏側にはすべてニューファンドランドのコッドがいる、コッドはすごいぜ、と思っているのだが、そう声高に主張するのは僕ぐらいかもしれない。
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- かつてのニューファンドランドでの干し塩ダラづくり
- そしてコッドは姿を消した
写真を見てほしい。ニューファンドランド島って、こんな島だったのだ。かつては島中でこんなふうにして干し塩ダラづくりが行われていた。
海に向かって突き出した建造物は「ルーム」という。ここにコッドを水揚げし、頭を落としたり肝臓を取り除いたり塩をしたり、という作業が行われる。写真の手前、開いたコッドを干しているところの呼び名は「ステージ」だ。あのプラセンティアで見た、石がごろごろした海岸で干していたのに比べると、かなり近代的になっている。
このルームとステージがセットになった光景が、ニューファンドランド島の海岸線を覆い尽くしていた。だから島では「コッド・イズ・キング」なのだし、コッドのおかげで島の人たちはみんな食べてこられた。それはもう、遡ればヨーロッパの中世後期とか大航海時代とか、それ以来続く長い時間の話だ。
しかし1992年、カナダ政府はコッド漁を全面的に禁止してしまう。まだ30年も経っていない最近の話だ。理由は資源の枯渇。大型の外国船がやってきて、海の底にすむコッドを一網打尽にしてしまったらしい。漁師さんはいくつかの国の名前を挙げる中で、日本の船も含まれている、と言っていた。
はるか昔にバイキングが到来した歴史はともかく、コッドは少なくとも500年は島を支えてくれた。そのコッドがあっという間に姿を消したのだ。それはもう、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
知りたい ニューファンドランド
https://www.canada.jp/newfoundland-and-labrador/
Canada Theatre(カナダシアター)
www.canada.jp/
取材協力: カナダ観光局
- 「すべて知りたい!カナダ・ニューファンドランド島 vol.10 スクリーチ・イン再び」へ続く...