旅の扉
- 【連載コラム】【厳選旅情報】編集部がみつけた、旅をちょっぴり豊かにするヒント
- 2026年4月22日更新
- リスヴェル旅コラム
Editor:リスヴェル編集部
奈良旅が人生を変えた!日本で唯一の墨型彫刻師・佐藤奈都子さんの仕事
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- 墨型彫刻師・佐藤奈都子さん。工房に並ぶ無数の彫刻刀と木型に囲まれて
- 奈良に惚れて、奈良に住んで、奈良でしかできない仕事を見つけた
昨年の奈良旅で、墨の原材料である煤(すす)、膠(にかわ)を作る職人も、木型を彫る職人も、国内に数名しか残っていないことを知り、書道文化を支える職人が減り続けていることへの危機感を感じていた。そして今年、固形墨の木型を彫る仕事を日本で唯一、独立した墨型彫刻師として活躍しているのが、佐藤奈都子さん一人になってしまったことを新聞記事で知った。
気になったのは職業のことだけではなかった。横浜出身の奈都子さんが、なぜ奈良に暮らし墨型彫刻師になったのか。書道に携わる者として、この仕事と担い手をもっと多くの人に知ってほしい、奈都子さんを応援したい、そんな思いを抱いて、2026年3月の奈良旅で奈都子さんに会いに行った。
奈都子さんは横浜生まれ、横浜育ち。職人の家系でも、書道家の家系でもない。ただ、歴史好きの父親に連れられて幼い頃から奈良をよく訪れていた。大人になるにつれて日本文化への関心が深まり、奈良への思いも強くなっていったという。京都とはまた違う古都の趣き、余分なものがない静寂さ、その空気感が好きで、いつか住みたいと思っていたそうだ。
移住が叶った時には、「好きなモノに囲まれて暮らしたいという感覚と一緒で、奈良にいると自分が求めるもの、好きなものが全部この環境の中にあるという感覚が嬉しかった」と語ってくれた。加えて、「夜中に目が覚めてベランダに出ると、奈良公園や原始林の匂いがする。犬の散歩に行けば鹿と道ですれ違う。旅行では気づかないことが、暮らしの中にある」と、嬉しさを滲ませていた。そして、好きな場所に住むという選択が、思いがけない仕事との出会いに繋がっていくのである。
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- 師匠・中村雅峯氏の工房と道具
- 奈良に暮らして出会った、消えかけていた仕事
奈都子さんも幼少期に書道教室で墨を磨っていたが、その墨が奈良産だとは知らなかった。移住してから、奈良墨の全国シェアが9割以上を占めていることや墨の作り方を初めて知った。そして、地域のテレビ番組で木型に彫刻を施す職人の映像を目にしたとき、「これをやりたい」という直感が走ったという。
固形墨の表面に浮かぶ文様を眺めたことがあるだろうか。文字、龍、花鳥などの彫刻は、木型の内側の彫刻が転写されたものだ。煤(すす)と膠(にわか)を練り合わせた墨玉を木型に押し込み、固めて取り出すと、その型の文様がそのまま墨の表面に現れる。その木型を彫るのが墨型彫刻師の仕事だ。
墨型彫刻師の技術は一子相伝で受け継がれてきた。歴史上、女性の職人は存在しなかった。それでも奈都子さんは、墨屋・錦光園を通じて当時日本で唯一の墨型彫刻師だった師匠・中村雅峯氏のもとを訪ね、弟子入りを願い出た。「無理かもしれないとは思っていました。でも、何もしないで後悔するよりは、まず伺うだけ伺ってみようと思った」と、当時のことを語ってくれた。奈都子さんの熱意が伝わったのであろう、師匠は受け入れてくれた。中村家は約220年続く墨型彫刻師の家系。その系譜を継ぐ8代目として修業を重ね、今年で4年目に入った。「失敗とか壁というより、どうやったらできるかを考えることの方が好き」と語る。うまくいかないことを試行錯誤する過程が、楽しいそうだ。
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- 「光輝」は両方の技法を駆使した奈都子さんが気に入っている作品の一つだという。
- 墨の顔を彫る、想像を超えた繊細な世界
型に彫る文字や文様は、左右反転させて彫らなければならない。彫る深さは0.3ミリ以下。0.5ミリのシャープペンシルの芯を横に当てると、彫った部分の方が低く見えるほどの繊細さだ。市販の彫刻刀では細かい作業に対応できないため、道具の多くが手作り。工房には師匠から受け継いだ100本以上の刃が並ぶ。
木型の技法には、文字が浮き上がるよう周りを削る「彩色彫り」と、龍や鳳凰などに立体感を出す「肉彫り」がある。奈良の鹿をモチーフにした木型「鹿」は、師匠・中村雅峯氏が2004年に制作した作品で、四代目・中村集治郎の墨譜を参考に、墨型職人の先祖への感謝を込めて作られたものだ。奈都子さんにとってもこの「鹿」は「肉彫り」で初めて挑戦した印象深い作品。鹿の部分を削ると、墨になると鹿が立体的に浮き上がる。ただし彫りすぎるとマッチョな鹿になってしまうため、加減は彫刻師の感性に委ねられる。「立体感を出すのは自分の腕次第。気持ちと完成イメージの想像力など、彫刻師の感性やセンスで表現が変わってくるんです。二次元のデザインは決まっていても、立体感を出すのは彫刻師のセンスによって変わる。そこを考えるのが楽しいです」。
この話を聞いて、墨型彫刻師は職人であると同時に、感性や美意識を表現するアーティストでもあると感じた。そして、高山茶筅について伺った時の「用の美」を思い出した。使って消えてしまうもの、破棄される道具の機能を超えて追求される美のかたちに職人の強い意志とプライドを感じた。
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- 江戸・明治期の拓本や型押し見本が残っている
- 師匠から受け継いだものとこれから
中村家の屋号は「型集(かたしゅう)」。1805年(文化二年)の創業で、その評判は奈良名産史に「墨型につきて知識ある者、型集の名を知らぬ者なし」と記されるほどだった。昭和初期には奈良に10人以上いた墨型彫刻師も、平成初期には師匠の中村雅峯氏がただ一人となり、その師匠もすでに亡くなっている。現在、奈都子さんはその技を引き継ぐ8代目を担っている。
工房には、先代たちが遺した江戸・明治期の拓本や型押し見本が展示されている。木型に粘土を押し当てて彫刻の出来栄えを確かめた職人の「仕事の記録」である。当時はLEDのような明るい照明も拡大鏡もなかった。それでも先代たちは細密な彫りをこなしていた。奈都子さんがその存在に気づき「まとめて展示しましょう」と提案するまで、工房を訪れた誰もがそれらを見たことがなかったという。
師匠から教わった「売り物には花を飾れ」という言葉が、今も奈都子さんの心に深く残っている。売り物は、見えない場所でも美しくしておくべきだという意味だという。「墨はデザインがなくても使えるのに、消えてしまうものをこんなにも美しくしておこうという日本人の美意識が、すごく好きなんです。私がこの仕事を続けている理由の一つでもあります」と、目を輝かせている奈都子さんは素敵だった。
国内唯一の独立した墨型彫刻師として、後継者についての考えも聞いた。「技を伝承するというより、一緒に頑張っていけたら、という感覚です。向いているのは器用な人よりも、地道に繰り返せる人。型を彫ることに純粋に興味を持てる人」。ただ、これだけで生活を成り立たせることは今非常に難しいという。文化が継承されていくためには、仕事として成り立つことが前提となる。
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- 型と完成した墨の対比
- 墨という文化が、どれほど深いか
墨で書かれた文字は、保存状態がよければ千年以上残る。万葉集も、源氏物語も、墨があったから今に伝わっている。「この墨がなかったら、万葉集も源氏物語も知るよしもなかった。墨があったから文字が残ったということに、ありがたさを感じるんです」。
イベントでは外国人の来場者も多く、木型そのものを買いたいという声もあるという。しかし奈都子さんが願うのは、まず日本人にこの文化の深さを知ってほしいということだ。「書道と水墨画だけのものじゃないので、自分なりの楽しみ方で、眺めるでも飾るでも、好きな使い方を見つけていただけたら」。
墨を磨ること、写経をすることは、忙しい日常の中で脳を沈める時間、息をつく時間になるのではないだろうか。墨を磨った時の香りの中に、日本人の遺伝子に組み込まれた何かがある気がする。純粋に、一人でも多くの人に、墨をもう一度手に取ってほしいと思う。
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- 0.3ミリ以下という繊細な彫りの世界
- 旅は、自分を知る旅でもある
最後に、旅をする人へのメッセージを聞いた。
「旅をして、自分が心地よいと感じる場所を見つけてほしいです。どこに行っても比べてみないと、自分が本当に好きな場所はわからない。外に出ることは、自分を知ることだと思うから。好きな場所に住むって、当たり前のようで、なかなかできないことだけど、それって本当に素敵なことだと思います。奈良に来たことで、私はやりたい仕事を見つけることができたので」。
改めて、奈良の魅力について聞いてみると、「大仏様と鹿さん以外にも、四季で景色も空気感も変わってくるので、好きな場所が見つかると自分の安らぐ場所になるんじゃないかと思います。私は二月堂が好きで必ず寄っていました。吉野もよく行きました。お気に入りの場所に行くと落ち着くし、日常から少し離れて、自分の気持ちと向き合える時間になると思うんです。」
奈良には飛鳥時代から1400年以上の時間が今も流れており、その文化を守る人がいる。書道に関わる人、日本の文化継承に関心がある人には、ぜひ一度この地を訪れてほしい。今回の書をめぐる奈良旅は、到着早々にまた少し深くなった。
取材:RISVEL編集部 N.C.
佐藤奈都子さんの作品購入は錦光園 奈良墨工房を通じてご相談ください。