旅の扉
- 【連載コラム】【厳選旅情報】編集部がみつけた、旅をちょっぴり豊かにするヒント
- 2025年11月20日更新
- リスヴェル旅コラム
Editor:リスヴェル編集部
書の原点をたどる奈良旅:写経・墨・筆を巡る静かな時間
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- 薬師寺のお写経道場へ
- 書の文化が根づいた地・奈良
書の世界に関わる人々にとって、奈良は特別な場所である。
筆、墨、紙。書の道具の多くが奈良に起源をもつことを、どれほどの人が知っているだろうか。
奈良時代、中国から漢字や書法が伝わり、仏教の広まりとともに写経が盛んになった。「書く」という文化が日本に定着したのはこの時代であり、その中心が奈良であった。寺院では日々写経が行われ、政治の現場では公文書の作成に筆と墨が用いられた。こうして筆・墨・紙の製造技術が発展し、日本の書文化の基盤が築かれたのである。
今回の奈良旅では、写経、墨づくり、筆づくりを体験し、書の背景にある手仕事と歴史をたどった。華やかさはないかもしれないが、日本人の奥ゆかしさの源が、書を奏でる所作に宿っているように感じた
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- まずは、お写経で心を整える
- 薬師寺で心を整える写経
最初に訪れたのは薬師寺のお写経道場。
白鳳時代に天武天皇の発願で創建された薬師寺は、法相宗の大本山として知られる。1300年以上にわたり祈りの場であり続けてきた寺である。
薬師寺のお写経道場では、誰でも静かにお写経に臨むことができる。受付を済ませ、香「丁子(ちょうじ)」を口に含んで身を浄め、「香象(こうぞう)」をまたいで体外を浄める。輪袈裟をかけて道場へ。合掌し「写経観念文」を一読した後、筆を取り一文字ずつ丁寧に手本をなぞる。やがて呼吸が整い、心が澄みわたっていく。お写経は、上手に書くことではなく、心を込めて書くことを重んじる行である。
書き終えた用紙は納経盆に納める。筆を置いた後の静けさが、心の深部に余韻を残す。奈良での旅の始まりにふさわしい体験である。
法相宗大本山 薬師寺
https://yakushiji.or.jp/osyakyo/
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- 7代続く墨匠「錦光園」の後継者、長野睦氏
- 奈良墨工房でにぎり墨体験
奈良は日本の墨づくりの中心地である。
墨の起源は約2000年前の中国・漢の時代にさかのぼるが、日本には7世紀ごろ、飛鳥時代に朝鮮半島を経て伝わったとされる。奈良時代には寺院での写経需要を背景に墨づくりが盛んになり、室町時代には灯明の煤から作る「油煙墨」が生まれ、黒味と光沢の美しさで「奈良墨」として知られるようになった。
江戸時代には奈良だけで40軒を超える墨屋があったが、現在では全国で約9軒、そのうち8軒が奈良市に残っている。日本の固形墨の9割以上が奈良で生産されている。
筆者が訪ねたのは、奈良市の錦光園・奈良墨工房。店内には松煙や膠、木型など製墨の道具が並び、伝統の香りが漂う。工房では墨の製造工程を見学し、自ら生の墨を握って成形する「にぎり墨体験」を行う。やわらかな墨の感触と手に残る香りから、長い年月をかけて熟成される奈良墨の奥深さが伝わってくる。
完成した墨は桐箱に納めて持ち帰ることができる。持ち帰った後は、直射日光の当たらない涼しい場所で3か月開けずに保存してから使用するように指導された。急激に乾燥させると、ひび割れなどの原因になるらしい。これから冬で乾燥するのでもう少し熟成させてから開封の日を待つことにする。
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- 奈良の伝統と現代を繋ぐ墨物語
- 奈良墨はいま、時代の変化とともに大きな転換期を迎えている。液体墨や墨汁、筆ペンなどの普及により、墨を磨って使う固形墨の需要は減少傾向にある。膠(にかわ)の生産者が減少し、国産原料の確保が難しくなっていることも課題の一つである。さらに、職人の高齢化と後継者不足が進み、伝統的な製墨技術を継承することが難しくなっている。
こうした中で、奈良の墨づくりには新たな方向性が求められている。伝統的な用途にとどまらず、デザイン性や贈答用、ライフスタイル文具としての価値を創出し、現代の生活に寄り添う存在として再評価する動きが広がっている。国内市場の縮小を背景に、海外への発信や若い世代への訴求も重要な課題となっている。
錦光園は伝統を守りながら革新を続けている工房である。奈良墨の特徴である香りと艶やかな黒の美しさを前面に出し、墨そのものを工芸品として昇華させている。奈良に伝わる伎楽面の意匠と香りを組み合わせた「香り墨」、菓子木型を用いた「木型墨」、おはじきをかたどった「おはじき墨」など、墨の新たな表現が次々と生み出されている。墨は今、書くためだけの道具ではなく、香りを楽しみ、飾って眺め、心を整える存在へと広がりを見せている。
書に携わる者にとって、こうした変化は伝統を見つめ直す契機でもある。書は技巧を競うものではなく、心を映す行為であることを、奈良の墨は静かに教えてくれる。墨を磨り、その香りに包まれる時間こそが、現代における「心を整える儀式」といえるのではないか。墨を磨るたびに、書くことの意味もまた、少しずつ深まっていくかもしれない。
錦光園 奈良墨工房
https://kinkoen.jp/experience/
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- あかしや本社
- 奈良筆の里で筆づくりを体験
奈良は、日本の筆づくりの発祥地でもある。筆の起源は約2300年前、古代中国・秦の時代に遡る。日本では8世紀ごろ、奈良時代から平安初期にかけて中国・唐から筆の製法が伝わり、奈良の僧侶や職人たちがその技術を受け継いで独自に発展させたとされる。伝承によれば、唐に渡った僧侶・空海が筆づくりの技法を学び、大和の国に住む坂名井清川に伝えたことが筆生産の始まりといわれている。いずれにせよ、奈良は古代から筆と深く関わり、日本の書道文化の基盤を築いてきた土地である。
奈良筆の最大の特徴は、十数種類にも及ぶ獣毛を組み合わせる「練り混ぜ法」にある。リス、イタチ、タヌキ、ヤギなど、毛質の異なる素材を用途に応じて緻密に調合し、穂先のしなやかさと弾力を調整する。穂の内部は「命毛」「腹毛」「腰毛」など複数の層で構成されており、筆運びの安定感と墨含みの良さを生み出している。
製造工程のすべてが手仕事である点も奈良筆の真髄である。毛の洗浄、選別、毛組み、成形、乾燥、軸入れに至るまで、数十の工程を経て一本の筆が完成する。わずかな毛の流れや角度まで繊細に整えられた筆先は、書く者の心の動きまでも映し出すといわれる。写経や書道、日本画、さらには現代のデザイン筆や化粧筆に至るまで幅広い筆が、伝統ある奈良筆の技術を活かしてつくられている。奈良の筆づくりは、単なる工芸ではなく、日本人の美意識と精神文化を今に伝える象徴的な手仕事である。
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- あかしやショールーム
- 今回訪れたのは、奈良市南新町に本社を構える筆専門メーカー「あかしや」である。創業は江戸中期にさかのぼると伝わり、約300年の伝統を受け継ぐ老舗として知られている。書道用・日本画用の筆のほか、化粧筆や筆ペンなども手がけ、「奈良筆」のブランドを広く展開している。
筆づくり体験では、まず15分ほどの映像で筆の製造工程を学び、その後、伝統工芸士による詳しい解説を受ける。筆者が訪れた際には、奈良筆の伝統工芸士・松谷文夫氏が奈良筆の歴史と製法について丁寧に語ってくれた。体験では、太筆と細筆それぞれ1本ずつの穂先を糊で整える「仕上げ」の工程を実際に行う。完成した筆は当日持ち帰ることができ、旅の思い出としても価値ある一品となる。
併設のショールームでは、同社が製造するほとんどの書道筆を試筆できるほか、筆ペンや化粧筆の試用も可能である。書く人の手に最もなじむ一本を見つける喜びは、筆を“使う”だけでなく、選ぶ、作る、という行為を通して書と向き合う新しい体験になるだろう。
あかしや 筆づくり体験
https://www.akashiya-fude.co.jp/
奈良の神社仏閣を訪ね、野生のシカを愛で、名物のかき氷やスパイスカレーを味わうのも奈良旅の醍醐味である。だが、書をたしなむ人には、ぜひ「書」を中心に据えた奈良の旅を楽しんでほしい。筆、墨、紙、そのすべてがこの地から始まったといわれるように、奈良には日本の書文化の原点が息づいている。
今回の「書をめぐる奈良旅」は、その入り口にすぎない。かな書の巨匠・杉岡華邨の作品を所蔵する奈良市杉岡華邨書道美術館、工芸作家の展示やワークショップを行う「なら工藝館」、墨づくりの伝統を今に伝える「古梅園」、そして天平写経など貴重な書の史料を収蔵する「正倉院」など、奈良市内には書道文化に深く触れられる場所が多い。
日本の文化伝承を大切に思う人にこそ、筆を手に静かに心を整える時間を過ごしてほしい。次の奈良旅では、手漉き和紙の産地・吉野を訪ね、筆・墨・紙の三つがそろう「書の源流」をたどりながら、日本の美と精神の原点を感じてみたいと思う。
取材:RISVEL編集部 N.C.