(「シリーズ『北海道より大きいカナダの島』【24】」からの続き)
俳優のレオナルド・ディカプリオさんが主演した1997年公開の映画が大ヒットした英国の豪華客船「タイタニック」の沈没事故から今年で110年を迎えた。北海道より大きいカナダ東部の島、ニューファンドランド島にある北米最東端のスピア岬から眺めた大海原の平穏さとは対照的に、音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)で日本人初のアカデミー賞作曲賞を受けた坂本龍一氏、高橋幸宏氏と組んでいる細野晴臣氏の祖父は日本人唯一の事故生存者として荒波に立ち向かい、いわれなき非難を浴びてしまった―。
▽SOSの日
毎年4月14日は「SOSの日」となっている。これは1912年4月14日、初航海で英国サウサンプトンから米国ニューヨークへ向かっていたタイタニックがニューファンドランド島沖で氷山に衝突し、SOS信号を発したのに由来する。
47年さかのぼった1865年4月14日には、南北戦争末期のアメリカ(米国)の首都ワシントンにある「フォード劇場」で当時大統領のエイブラハム・リンカーンが暗殺された。それらの悲劇を現在ワシントンに住み、ニューファンドランド島を訪れた誕生日が同じ日の私が伝えているのは運命のいたずらのように思える。リンカーンが亡くなり、タイタニックが沈没したのはともに翌15日だった。
▽初航海で沈没
タイタニックは総トン数4万6328トンで全長269メートル、全幅28メートルという巨体を誇った。ところがグリーンランドから流れ、ラブラドール海流によってニューファンドランド島の沖合まで運ばれる氷山に当たった船体には大きな衝撃が走った。
タイタニックには乗客と乗員合わせて2224人が乗り込んでいたが、救命ボートが足りなかったため1513人もの犠牲者を出した。
▽ロシア留学後の帰路で遭遇
事故に遭遇した日本人唯一の乗客が、細野晴臣氏の祖父の細野正文(1870~1939年)だ。当時41歳で、国土交通省およびJRの前身に当たる鉄道院の在外研究員としてロシア・サンクトペテルブルク留学を終え、欧米での鉄道事情視察を兼ねて英国から日本への帰路でタイタニックの2等客室に乗っていた。
当時を振り返った細野正文の手記によると、甲板で救命ボートを降ろしつつあるのを見て「(自分の)命も今日で終わることを覚悟して、慌てず、日本人の恥になるまじきと心掛けつつ、機会を待っていた」と乗り込む順番を待っていたのをうかがわせる。乗り込むのは女性と子どもが優先されて「私はもはや船と運命を共にするほかなく最愛の妻子を見ることもできないと覚悟して悲しみにひたっていた」ものの、他の男性も救命ボートに飛び込んだのに続いて一命を取り留めた。
▽旧5千円紙幣になった大物が非難
オンラインメディア「ハフポスト」の記事によると、タイタニックの男性乗客で生き残ったのは全体の18%の146人にとどまり、中でも細野正文を含めた二等客室の男性生還者はわずか14人だった。タイタニックで救命ボートに乗らずに死んだ男性が「極限状態でもレディーファーストを貫いた」と持ち上げられたのとは対照的に、「生き残った男性がひきょう者扱いされる傾向が、世界中で起きていた」と指摘する。
細野正文も矢面に立たされた。非難した1人は「われ太平洋の橋とならん」の言葉で知られる元国際連盟事務次長で、旧5千円札紙幣の肖像にもなった新渡戸稲造(1862~1933年)だ。
新渡戸は「新渡戸博士より義勇少年諸君へ」と題した雑誌のインタビュー記事で、名前こそ出していないものの明らかに細野正文を指してこう指弾した。「其人(そのひと)はマンマと一命を全うしたのだが、此(この)一人の男というのは、当時タイタニックに乗り込んで居た…たった一人の日本人であったのでね、勿論(もちろん)、その人は鉄道院かの役人だから責任を重んじて助かったのだろうが、何でも、其人は帰って来てから休職になったようには聞いて居る…」
▽釈明も反論もしなかった理由
私は新渡戸に敬意を抱いているものの、このインタビューでの発言には承服しかねる。「鉄道院かの役人だから責任を重んじて助かったのだろう」と証拠がない臆測に基づいて批判したのは余りにも無責任で、かつお門違いなのは火を見るよりも明らかだ。
しかし、1899年に発表された名著『武士道』の著者にも厳しく断罪され、細野正文がいわれなき批判を浴びて針のむしろになっていたことは察するに余りある。実際、将来を嘱望されてロシアに留学し、欧米の鉄道事情を視察したはずの細野正文は帰国翌年の1913年に鉄道院副参事の役職を降り、嘱託となっている。
生存の経緯が明らかに誤解されながら、細野正文は釈明も反論もしなかったとされる。その理由は、細野正文が言い訳や弁明を潔しとはしない武士道精神を重んじていたからだとの見方がある。新渡戸が美徳として世界に発信した武士道を実践した結果、自らへの理不尽な批判に反論できずに自縄自縛になっていたとしたら同情を禁じ得ない。
もう一つ皮肉なのは、両者が広義の同門だったという事実だ。細野正文は現在の東京外国語大学の前身に当たる東京外国語学校でロシア語を修得し、新渡戸は旧制東京外国語学校から分かれた東京英語学校で学んだ。現在の山野内勘二・駐カナダ日本大使も東京外大の卒業生なのを、同窓会「東京外語会」の元理事で広報委員の末席を汚している卒業生として誠に僭越ながらご紹介したい。
細野正文がいわれなき非難に直面した悲哀を理不尽に思いながら大西洋を眺めていると、孫の細野晴臣氏とともにYMOのメンバーの坂本龍一氏がグランドピアノで奏でた「戦場のメリークリスマス」の美しくも、もの悲しさを漂わせた旋律が思い起こされた。イアン・バーニー前駐日カナダ大使が2017年に大使公邸で開いた坂本氏のリサイタルに招待していただいた時に目の前で拝聴した音色だ。
後世の1人として細野正文の名誉回復がさらに進むことを願うとともに、がん闘病中の坂本氏の病状が快方に向かうことを心からお祈りしたい。
(「シリーズ『北海道より大きいカナダの島』【26】」に続く)
(連載コラム「“鉄分”サプリの旅」の次の旅をどうぞお楽しみに!)