(「米国屈指の犯罪都市ボルティモア【2】」からの続き)
アメリカ(米国)で凶悪犯罪発生率4位の都市、東部メリーランド州ボルティモア市に似つかわしくないような「パラダイス」すなわち「楽園」という行き先の路線バスを見つけ、期待を胸に秘めながら乗り込んだ。1980~90年代に活動していた男性グループ「光GENJI」の「パラダイス銀河」というヒット曲があったが、足を踏み入れると「ようこそここへ」と歓迎してくれるのだろうか?
▽「楽園」ではない!?
「ボルティモアの中でも治安が悪い地域」(メリーランド州在住の米国人男性)とされるウエストボルティモア地区のフレデリック通りにあるバスの停留所に、メリーランド州運輸局の路線バス「シティーリンク パープル」(紫線)が時刻通りに着いた。バスの行き先を表示した先頭部の電光掲示板には「PARADISE(パラダイス)」と記されている。そう、「楽園」行きのバスなのだ。
「果たしてどんな『楽園』が待ち受けているのだろうか?」とそわそわしながら硬い座り心地の座席に腰掛けた。沿道には2~3階建ての古めかしい集合住宅「タウンハウス」が林立している。
およそ15分たって「次が終点の…」と女性の声の録音された車内放送が流れた。ところが、満を持して読み上げられたバス停の名前はそのものずばり「楽園」というわけではなかった。
▽停留場名の付け方
放送で流れたバス停の名称は「フレデリック通り・パラダイス通り」だった。乗車した路線バス「シティーリンク パープル」はボルティモアの中心部と近郊を東西に結んでおり、一部区間はフレデリック通りを突き進む。
このため、フレデリック通り沿いの交差点付近にあるバス停はいずれも「フレデリック通り」を冠し、その後ろに交差している道路の名前を付けているのだ。このようなバス停の名称の付け方は米国で多く見られる。
「パラダイス」は、フレデリック通りと差し掛かっている道路の名称だった。もしも「フレデリック」と表記すればフレデリック通りで始まるどのバス停なのか判別できない。しかも同じメリーランド州にはフレデリック市という人口約7万2200人(2019年時点)の都市があり、同市へ向かうのかと誤解される恐れもある。そこで、バスの行き先表示には後ろの道路名である「パラダイス」を記しているのだ。
▽歓迎ムード?
バスを下車すると、フレデリック通りを挟んで日本のセブン&アイ・ホールディングス傘下の米国企業が運営するコンビニエンスストア「セブン―イレブン」があり、近くには飲食店や物販店が軒を連ねていた。建物はどれも小ぶりで年季が入っているが、乗車したウエストボルティモアのバス停周辺に比べるとやや落ち着いた雰囲気だ。
しかし、残念ながら「楽園」と呼べるような目的地ではない。そこで、同じ路線「パープル」の乗っていたバスとは反対方向のボルティモア中心部に行くバスの停留所へ足を運び、次のバスの時刻を調べるために時刻表を探した。
すると、「やあ君、元気か?」と40歳代とおぼしき白人男性がと声を掛けてきた。
「ようこそここへ」とは言われなかったものの、どこか歓迎ムードは漂う。ただし、米国の観光地でもない路上で見知らぬ相手に次々と声を掛ける人には一定の“法則”がある。それが、私が米国でこれまでに通算7年余り暮らしてきた経験則だ。想定通りならば、往々にしてやや面倒な展開が待ち受けているはずだ…。
▽バス運賃がないのに買い物!?
「Hi(やあ)」とだけ答えると、男性は「次のバスはいつ来る?」と尋ねてきた。停留所の標識に時刻表は設置されていなかったため、私はスマートフォンのアプリで次のバスの時刻を確認したところだった。
「あと3分程度で来るよ」と教えてあげた。
男性は「ありがとう」と言った後、私が想定していた通りの言葉を口にした。
「バス運賃のために1ドル(約110円)をくれないか」
「ほら、来た」と心の中で思った。と同時に、この男性の矛盾に気付いた。片手に透明な容器に入っており、氷で満たされたアイスコーヒーを持っており、どう見ても買ったばかりなのだ。もしもバス代が足りなくなるのならば買わなければ良かったのだ。
それとも、「アイスコーヒーを買えるのになぜバス代がいるのか?」と追及すると、「これは親切な人に恵んでもらったんだ」と言い訳するのだろうか?いや、「バス運賃」というのは口実に違いない。
「ごめん…」と断ると、「いや、いいんだ。すまなかった」と男性は思っていたよりあっさり引き下がった。
▽「月収が1400ドルしかないのよ!」
ところが、ピザ屋の箱を抱えた黒人女性がフレデリック通りを渡ってくると、同じように「やあ、ピザを買ったのか。(購入したのはピザ店チェーンの)パパ・ジョーンズだね。いくらだったのか?」と声を掛けた。女性は「12ドル(約1300円)だったわ。これは特別に注文したピザなのよ」と箱を大事そうに抱えながら返した。
すると、男性はここからが本題とばかりに「バス運賃の1ドルをくれないか」とまたせがんだ。
女性は「私は月収が1400ドル(約15万4千円)しかないのよ」と拒否した。余計なお世話ながら年収を単純計算すると1万6800ドルとなり、メリーランド州の2019年の中間世帯年収は8万6738ドルの2割弱にとどまる水準だ。米国平均を下回るボルティモア市の15~19年平均中間世帯年収(5万379ドル)と比べても3分の1だ。
私はこれまでにこの男性のように金銭を要求したことは一切ない。だが、必要に迫られて無心せざるを得ない場合でも、こう聞かされると惻隠の情で「申し訳ありません。どうぞ良い日を過ごしてください」などと答えてしまうだろう。
ところが男性は諦めず、「僕には子どもが2人いて大変なんだ」と執拗に1ドルを要求している。女性も「私にも子どもがいるわ」と防戦に必死だ。
次の瞬間、ボルティモア中心部へ向かう路線「パープル」のバスが滑り込んできた。ピザの箱を抱えた女性が乗車したのに続き、「バス運賃の1ドル」を入手できなかった男性も何食わぬ顔で運賃箱にお金を入れて乗り込んだ。
男性の米国流の“手荒い歓迎”で「楽園」への期待感が吹っ飛んだ私も、スマートフォンのアプリで改めて購入したボルティモア地区の公共交通機関を片道1時間半以内ならば自由に乗れる切符(1・90ドル、約210円)の画面を運転手に見せて車内に入った。この先、聞きしに勝るボルティモアの驚愕の光景を目の当たりにすることになる―。
(「米国屈指の犯罪都市ボルティモア【4】」に続く)
(連載コラム「“鉄分”サプリの旅」の次の旅をどうぞお楽しみに!)