世界で最も接客態度が悪い料理店
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84年のロンドン。タクシーはオースチンだけどダブルデッカーはすでに新型。
むかしむかし、ロンドンはSOHOの一角に「世界で最も接客態度が悪い」中国料理屋がありました。店員が客に対して常にキレまくっている店で、僕も「メニューをください。」と言っただけで怒られたことがあります。それでも、とにかく値段が安いのが魅力でよく利用していました。
ある日、いつものように店員の機嫌を損なわないようにタイミングをみはからってようやく注文したチャーハンを喉の奥にもりもり押し込んでいると、何となく視線を感じました。顔を上げてみると目の前に座ったアジア系の若者が、スープをすくう手を止め、口元に笑みを浮かべながらこちらを見ていました。僕が口のまわりを油でギトギトさせたまま愛想で目配せすると、相手も笑顔を返してきます。
+ + +
君は日本人?
訛りのない綺麗な英語でした。
そうだよ。君は?
当ててみて。
え?
当ててみてよ。さて、僕はどこからやってきたでしょう?
少し面倒な気もしたけれど、男に邪悪な要素は感じられなかったし、特に質問を拒否する理由も見つかりませんでした。
香港?
ちがうね。
じゃあ、モンゴル。
ハズレ。君の隣人だよ。僕は。
隣?じゃあロシアかな。
彼はレンゲをテーブルの上に置き、はははと声に出して笑いました。彼の背後ではチビでハゲでメガネの給仕がツーリストとおぼしき金髪の女性客に向かって激しく罵声を浴びせていました。そのやりとりは何故か微笑ましく感じられ、店内のムードは彼らふたりを中心に調和の支配下にありました。
僕がロシア人に見えるかい?
と、男が言いました。
ぜんぜん見えないね。
と、僕が答えました。
韓国だよ。
と、彼が痺れを切らして答えをばらしました。
ああそうだ。ちがいない。言われてみれば、彼はどこからどう見ても韓国人にしか見えませんでした。何でわからなかったか不思議なぐらいです。
食事をしながら、僕らはいくつかの言葉を交わしました。どこで生まれて何でロンドンにいるのかとか、ここの接客はギネスブックに載せたいぐらい最悪だね。とか、他愛のない内容だったけど、彼の表情から彼が僕にただならぬ興味を持っているのを感じました。日本人好きなのか、ゲイなのか、あるいは単に「人」に興味を持つタイプなのか。
クリスチャンなんだ。
と、彼が言いました。これまでの会話とちがって、何かちょっと切羽詰まった感のあるトーンでした。皿に残ったごはんつぶをスプーンでかき集める作業をやめて、顔を上げると、彼の表情から笑みが消えて妙に神妙な顔つきになっているのがわかりました。
ごめんね。僕は宗教にはあまり興味がないんだ。
瞬時に彼の顔に元の笑顔が戻りました。
韓国人はさ、今や半分以上がクリスチャンなんだよ。
へえ、そうなんだ。
と、答え、(へえ、そうなんだ。)ちょうど通りかかった給仕に会計を払って、じゃあね。と、言葉を残して、席を立ち、後ろも振り向かないで店を出て、以来、そのクリスチャンの韓国人青年との食事のことは35年間記憶の外にありました。
それがきのう、静岡にある温泉施設のサウナの中で暑さにまどろんでいたら、その時の情景が脳裏に蘇ってきたんだな。これが。
彼はもっと僕と話をしたかったと思います。急いで後を追おうとする気配を僕は背後に感じていました。ちょっと失礼なことをしたかなあ。たぶんその頃の僕は「あまり友達を作りたくない」時期の中にいたのでしょう。宗教の勧誘を回避したかったというのもあるかも知れません。だけれど、たぶん、彼は僕をキリスト教に勧誘したかったわけではなかったような気がします。
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実は結婚を申し込もうと思っている女性がいてね。
ほう。それは素晴らしい。
そこでちょっと問題が。つまり僕がクリスチャンであることが。
ああ、なるほど。
君の国の人たちは宗教に対してずいぶん軽薄な概念を持っていると聞いたから、ちょっと君の意見を聞いてみたいと思って。
軽薄とは失礼な。彼らは、何に対しても大らかなのさ。宗教に対してもね。
彼ら?君だって「彼ら」のうちのひとりだろ?
確かに僕は国籍の上ではジャパニーズだけど、かなり変わった方の日本人だから、僕を日本代表と思わないでくれた方がいい。それに、こんな重要なものごとをたまたま料理屋で向かいに座った見知らぬ人間に相談するというのも少し馬鹿げているように感じる。それらを踏まえて言うならば、宗教が違うからって理由で好きな女性と結婚できないなんて、そんな考えはファックだね。
と、背後でさっきのチビハゲメガネの給仕が、真っ赤な顔をして僕らに何事かを叫び出しました。食い終わったら早く出て行けということらしい。
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ソウル行きのフライトの中でこれを書いています。80年代にロンドンのSOHOにある「世界で最も接客態度の悪い料理店」で芽生えたハンとの不思議な友情は今もずっと続いています。彼はその後、駆け落ちし韓国に戻って、小説家になりました。今では妻の両親とも和解して、お互いを行き来していると聞いています。ハンの小説はそこそこの成功を収め、そのひとつは日本語に翻訳されました。登場人物の日本人(変な奴だ)に僕の名前が使われていることは、それを読むまで知りませんでした。
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なんてね。久しぶりに妄想を爆発させてみました。(妄想ファンの方、お待たせしました。)
お隣の国、韓国には、実はまだ一度も行ったことがありません。最近、音楽や文学の分野で韓国の作品に触れる機会が多く、自分の中のアジアブームとあいまって、よく韓国を訪れることを夢見ます。
ちなみに「世界で最も態度の悪い料理店」はロンドンに実在していて、現地の友人によると今も健在だそうです。ただ時代の流れに揉まれたのか、接客態度はさほど悪くないとのこと。ちょっと残念ですね。