パリはマレ地区だったと思います。蜂蜜の専門店がありました。十坪ばかりの小さな店で、カーリーヘアで褐色の肌をした若い女性がひとりで店番をしていました。ドアを開けた時、彼女は頭の中に流れている音楽に陶酔していて、手でエアベースを弾きながら座ったまま踊っている最中でした。あまりに気持ちよさそうで、声をかけるのも躊躇しましたが、こちらとて蜂蜜の知識があるわけもなく、彼女の知恵を借りる必要がありました。彼女は心良く、妻のために2種類の蜂蜜を選んでくれました。
その後に入ったカフェも小さな店でした。コーヒーを注文するとカップがオレンジ色でソーサーがブルーでした。ふと店の奥を見ると一目でゲイとわかるカップルが並んで席を取り仲良く食事をしているところでした。ひとりがブルーのセーターを着て、もうひとりがオレンジ色のセーターを着ていました。「やあ、君らと同じだよ。」と僕は手元のコーヒーを指差して言いました。「君はカップ。」「そして君がソーサー。」ふたりはとても素敵な笑顔をよこし、英語で「サンキュー」と言いました。
次は楽器屋でした。何百年も前の古い楽器だけを扱うお店です。やはり小さなお店で、ありとあらゆるタイプの楽器が店内を埋めつくしていました。店守は白髪でヒゲを生やしたおじいさんです。娘が楽団でチューバを吹いていると言ったら、奥の方から古いユーフォニウムを出してきて音を鳴らしてくれました。ズババ!詰まっていた栓が抜けたような、何とも言えぬ不思議な音でした。
エッフェル塔に上る前に冷たい雨が降りました。3月のパリは寒く、風も吹いていて上るのをよそうかと思ったのですが、我慢して上まで行ったら虹が出ました。神さまは粋なプレゼントを思いつくものです。
帰国してすぐ、近所の商店街に小さな物件が空いているの見つけ、そのまま不動産屋に行って賃貸契約を結びました。何をやるかは決めてなかったけど、蜂蜜屋をやるのにも、カフェをやるのにも、楽器屋をやるのにもちょうどよい大きさの物件でした。
その店は3年しか続けることができなかったけれど、たくさんの素敵な物語がそこで生まれました。
その時のことをまたこうやってどこかで話すかも知れません。そのまま心の中にしまっておいて、時々思い出してひとりで楽しむかも知れません。
何が言いたいかって別に何も。ぼんやりと昔のこと、思い出したことをただ書きました。
旅っていいなあ。