zoom 秋の行楽シーズンが本格化する中で、選択肢としてお薦めしたいのが新幹線を使った泊まりがけの旅行だ。たとえば大都会の喧噪を忘れようと地方の温泉宿に出かけても、マイカーのハンドルを握っていると慣れない道に迷ったり、道路渋滞にはまったり、駐車場探しに四苦八苦したりと逆にストレスを抱え込んでしまうこともありがちだ。
対照的にスムーズに目的地へ向かうことができ、運転に気を取られることなく車窓を満喫でき、「呑み鉄」も楽しめるのが「こだわりの宿へ新幹線で!」という旅行スタイルだ。上越新幹線を最少利用者駅で下車し、「何もしない贅沢(ぜいたく)」を標榜する温泉旅館へ向かった。
zoom ▽町内だけで18湯!
群馬県を主導とする全国の自治体や関係団体は、温泉に浸かり、心身を癒やす日本の「温泉文化」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産登録を目指して推進活動を熱く進めているのが群馬県だ。東京から新幹線に飛び乗れば1時間程度で着いてしまう交通至便の立地が強みだ。
熱い源泉に約1・8メートルの板を入れてかき混ぜ、効能を薄めずに入浴に適した温度まで下げる入浴法「湯もみ」を踊りと組み合わせたショーが人気の草津温泉(草津町)、昭和時代に流行した名車やおもちゃ、アイドル歌手のレコードなどを展示した「伊香保おもちゃと人形自動車博物館」、温泉街の射的場などでレトロ気分に浸れる伊香保温泉(伊香保町)、温泉水を用いてつくられる「磯部せんべい」が名物の磯部温泉(安中市)などで知られる。
そんな“強豪”がひしめく中でも、特に恵まれている温泉地がみなかみ町だ。「みなかみ18湯」の名前で売り込んでいる通り、水上温泉郷に八つの温泉地があるのにとどまらず、法師温泉や猿ケ京温泉なども含めて計18カ所もの温泉地を抱えている。
zoom ▽新幹線駅から路線バスで到着!
目移りしそうなほど多くの温泉地がひしめくみなかみ町にあって、今回向かった目的地は猿ケ京温泉だ。東京で上越新幹線の列車「とき」に乗り込んで上毛高原(みなかみ町)へ向かった。
上毛高原は在来線とは接続しない新幹線単独駅で、JR東日本によると2024年度の1日当たり平均乗車人員は744人と上越新幹線で最少。関東地方の新幹線駅としては所在地が「町」にある駅は唯一だ。
ただ、東口の駅前にはバス停留所の標識が行き先別に3本並んでいる。これらの停留所からは群馬県北部に路線網を持つ関越交通(群馬県渋川市)の路線バスが発着しており、猿ケ京行きが出発するのが3番乗り場だ。新幹線が到着した28分後、日野自動車の2011年式中型バス「レインボー」の猿ケ京行きがやってきた。
途中で経由する群馬県道273号と国道17号は、赤谷川とほぼ沿っている。というのも、赤谷川の上流にある赤谷湖の近くに広がっているのが猿ケ京温泉のためだ。
車窓でとりわけ目を引いたのは、頭上にそびえる壮大なアーチ橋だ。これは上越新幹線の赤谷川橋梁(きょうりょう、全長298・8メートル)で、中央径間は約126メートルもある。
バスが坂道を上がり、赤谷湖が進行方向左手に見えてくると終点の猿ケ京停留所に到着した。上毛高原駅からの所要時間は38分、運賃は大人1100円だ。
zoom ▽「慌ただしい日常」から離れる空間
停留所から5分ほど歩くと、2026年8月8日に開業したばかりの温泉旅館「shin猿ケ京」があった。旅館だった旧「生寿苑」を引き継いで刷新しており、いずれも掘りごたつを備えた客室が13室ある。コンセプトとして掲げているのが「自分に還(かえ)る、一泊。」だ。
森山貴史支配人は、宿泊客にとって「慌ただしい日常から少しだけ離れ、流れる雲を眺めたり、木の葉の音に耳を澄ましたりと、何もしない贅沢を味わうための場所でありたいとの思いを込めています」と説明する。
そんなくつろぎの空間は、足を踏み入れた瞬間に始まる。玄関に近いラウンジはフローリングにテーブルといすが並び、隣接して畳の空間があり、森山支配人は「宿泊客に『24時間いつでも使えますよ』とご案内をしており、群馬と新潟の県境も近いことから、長野を含めた3県の日本酒やお菓子を代わる代わる販売しています」と解説する。
「日本酒ラウンジ」(午前8時は30ミリリットルならば200円で試飲することができる。私が1合注文したのは、永井酒造(群馬県川場村)の純米吟醸酒「水芭蕉」の冷酒だ。まろやかな口当たりで、すっきりした味わいが特色だ。
zoom ▽ヒノキが香る貸し切り風呂も
客室は一間と二間、三間までの3種類あり、見学した最も広い三間の客室「和洋室」はベッドを備えている。他はオーソドックスな和室で、布団を敷いて泊まる。
客室名は「桐壺」や「藤壺」、「夕顔」、「柏木の間」など紫式部が平安時代に著したとされる長編物語「源氏物語」に由来した名前が付けられている。
温泉は露天風呂を備えた男湯、女湯に加え、内装に使われたヒノキの香りが心地よい貸し切り風呂も二つある。貸し切り風呂は入り口に掲示板があり、利用時間に客室名の札をつり下げるというシンプルな方式だ。
猿ケ京温泉は無色透明、肌に優しい弱アルカリ性の湯で、体を芯から温めて湯冷めしにくいとされる。源泉の温度は53~56度程度あり、配管から出てくる温度も50度程度と熱めのため「循環濾過(ろか)式で40度ぐらいを目安に調整しています」(森山支配人)。
ぬるめの温度を好む私にとっては露天風呂のコンディションがちょうど良く、鳥のさえずりや木々がそよぐ音に包まれて快適な入浴ができた。
zoom ▽「超絶」と付けられた地元食材
この日の夕食メニューは、先付けが群馬県産刺身こんにゃく・胡麻豆腐・焼ナスのおろし芋くら掛け・アユの甘露煮、造里が群馬県産開発の養殖ニジマス「超絶サーモンV3」、鍋物が上州牛・上州麦豚・地物きのこで、群馬県産コシヒカリのご飯、香の物も付いてくる。
私が目を丸くしたのは、刺身こんにゃくのおいしさだった。こんにゃく芋生産量が国内の9割以上を占める群馬県だけあり、魚介類の刺身の向こうを張れるほどの味わいなのだ。
「超絶サーモンV3」というインパクが絶大な名前のニジマスは、赤い色素「アスタキサンチン」を含むエサを与えないことで白身に仕上げている。ふんわりとした食感と、まろやかな味わいにたちまち引きつけられた。
1泊2日の滞在中、素晴らしい地産地消の食材に舌鼓を打ち、温泉に浸り、ゆったりと過ぎていく時間を堪能することができた。ただし、「何もしない贅沢」を満喫したかというと、そうはいかなかった。
「shin猿ケ京」はWi―Fiの利きが良いため、客室の掘りごたつで快適にリモートワークができてしまう環境なのだ。それに気づいてしまった私は、溜まっていた仕事に精を出してしまった。裏を返せば、仕事と休暇を手がける「ワーケーション」の旅行先にもうってつけだと言えよう。
現在の客単価は、1泊2食付きで2万円程度。森山支配人は「4~5年程度をかけて客室から眺められる中庭を整備したり、客室にも露天風呂を造ったりして客単価を5万円程度に引き上げたい」との構想を明らかにした。また、インバウンド(訪日客)らの獲得強化に向けて「上毛高原駅まで送迎車を出すことも考えている」と説明しており、「shin猿ケ京」の進化版が到来するのも遠い将来ではなさそうだ。
(連載コラム「“鉄分”サプリの旅」の次の旅をどうぞお楽しみに!)