首都圏から最も近い離島・初島(静岡県熱海市)と熱海港を結ぶ航路に今月、富士急行傘下の富士急マリンリゾートの新高速船「金波銀波(きんぱぎんぱ)」が登場した。デザイナーは、2025年の鉄道友の会「ブルーリボン賞」に輝いたJR西日本の特急「やくも」の273系などを手がけてきたイチバンセン一級建築士事務所代表取締役の川西康之さんだ。川西さんが明かしたこの船の「最もお気に入りの空間」は、273系の「アレ」を想起させた。
【初島】静岡県熱海市にある周囲が約4キロ、面積が約0・437平方キロの島で、同県唯一の有人島。熱海市中心部の南東約10キロの相模湾に浮かんでいる。2万年ほど前に海面に姿を現し、約7千年前から人が住んできたとされる。熱海市によると、2025年6月末時点の人口は223人。初島港の近くに地元住民が運営する食堂街があるほか、リゾートトラストの高級会員制リゾートホテル「グランドエクシブ初島クラブ」や、富士急行傘下の「PICA(ピカ)初島」が運営する宿泊施設やレストランなどが進出している。
▽訪日客の獲得強化も
2025年7月12日に就航した「金波銀波」は1993年建造の旧「イルドバカンス3世号」を改装し、292総トンの船体は全長44メートル、全幅8・2メートル。定員は約630人だ。
富士急マリンリゾートは熱海港―初島港をこの船と2014年就航の「イルドバカンスプレミア」の2隻を使って片道30分で結んでおり、原則として1日10往復している。大人の往復運賃は2900円、小学生は1450円。
船内で取材に応じた川西さんは、船そのものを初島の一部だと捉える「船まるごと初島」のコンセプトには「インバウンド(訪日客)の獲得を強化する狙いもある」と説明する。旅行大手JTBが2025年の訪日客数が初めて4千万人を突破すると予測している中で、川西さんは「近隣の神奈川県・箱根は訪日客であふれているのに、初島を含めた熱海はほとんどが日本人旅行者だ」と指摘。そこで、高速船に「新しい魅力を作らなければいけないというところから話が始まり、デザインで良いところを伸ばし、課題を解決しようとした」と打ち明けた。
▽改装前は「見ちゃいられない状況」
船は4フロアになっており、地階と1階が客室、2階が風を浴びることができるデッキ、3階には展望デッキを設けている。改装前のイルドバカンス3世号は1階の船内には長いすが並び、地下にはカーペットがほぼ一面に敷かれているだけの簡素な造りだった。
航海中は晴れていれば遠くに富士山を臨むことができる美しい景観が売りだが、改装前に乗船した川西さんは「船内の雰囲気は、初島のエクシブやピカの素敵な空間とはかけ離れていた」と明かす。中でも首都圏からの保養客が帰りに利用する初島から熱海に向かう便に乗ると「疲れていることもあってお客様の7割が寝ていた」とし、地階のカーペット敷きの空間ではお腹を出して仰向けに寝ているおじさんもいるなど「見ちゃいられない状況だった」と文字通りの“アンダーグラウンド”を振り返った。
▽寝そべるのは嫌でも…譲歩した点とは
川西さんはそんな“アングラ”空間にメスを入れ、寝っ転がる乗客が相次ぐことを阻止するためにカーペットの部分を大幅に縮小した。
その代わり、観光客に「なるべくスマートフォンをいじらせたくない」という美学では譲歩。中心となる2人掛け座席の間にはスマホやタブレットを置ける空間を設けており、「スマホやタブレットなどをゆっくりご覧いただける」と説明した。
「地階でのスマホ使用は認めた」という川西さんに理由を尋ねると、「この船の利用者には初島の住民と、通勤客を含めて初島の施設で働いている従業員がおり、それらの人たちは景色を見なくてもいいと思うためだ」と解説してくれた。
また、改装の目玉となったのは1階の客室最前部に設けた貸し切りの「特別室:金富士」だ。最大8人が着席できるソファを設けており、片道4千円の追加料金を支払えば借りることができ「夏休みの繁忙期には、座りたいお客様が乗船口で30~40分待っているため、特別料金を支払っていただければ確実に座れる空間を用意した」(川西さん)。
「特別室:金富士」に置かれたクッションや、1階の窓際に並んだ2人掛け座席の背もたれは「富士山型」だ。富士急は企業ロゴに富士山を描き、「富士山が見える地域で事業を展開している」(幹部)だけに、「富士山の形のデザインにすれば企画が通りやすい」(川西さん)というのは納得できよう。
▽デザイナーのお気に入りは…
私は乗船する場合に窓際の座席を選びがちだが、「金波銀波」の客室に入って真っ先に向かったのが中央部にあるボックス席だった。というのも居住性が優れた座席が海を向き、車窓を眺めやすいように位置を一段高くしているのが気になったからだ。
この座席を見た瞬間、似ていると思ったのが同じく川西さんがデザインした273系の2人用または3~4人用の座席「セミコンパートメント」だ。まるでお座敷のように背もたれの間に平らな座面を広げることができ、利用者は足を伸ばしてくつろげる。まるでグリーン車のような快適性ながら、指定席特急券だけで乗れるとあって高い人気を博している。
川西さんはセミコンパートメントを子育て世代の獲得強化の切り札と位置づけ、強い思い入れを持って設計しただけに、似ている「金波銀波」のボックス席も気合いを入れて開発したのだろうと思った。
よって「金波銀波でお気に入りの座席は?」との質問に対し、川西さんが「ボックス席です」と答えたのは想定通りだった。
家族連れに適している船内の空間はボックス席のほかにも、竹馬風ベンチを備えた2階の「遊歩デッキ」、人工芝を敷いた屋外に子ども用のトランポリンを設けた3階などがある。川西さんは「居場所の選択肢を増やしたので、家族で楽しんでもらえる」と胸を張った。
(連載コラム「“鉄分”サプリの旅」の次の旅をどうぞお楽しみに!)