zoom山は雪と霧に閉ざされていた。視界はほとんどなく、山頂に建つ円形の回転レストラン「ピッツ・グロリア」も、霧の中にぼんやりと浮かんでいるだけだった。最新のケーブルカーでたどり着いたその場所は、想像以上に“閉ざされた世界”だった。しかし、この神秘的な静寂は、数日後に訪れる「歴史的瞬間」へのプロローグに過ぎなかった。世界中が注目する新しいロープウェイのグランドオープン。その熱狂の瞬間に立ち会うため、シルトホルンを目指した3日間の旅が、ここから始まる。
シルトホルンは、スイス・ベルナーオーバーラント地方に位置する標高2,970mの独立峰だ。ミューレンの背後にそびえ、山頂からはアイガー、メンヒ、ユングフラウを正面に望むことができる。1969年公開の映画『女王陛下の007』のロケ地となったことで世界的に知られ、ピッツ・グロリアは、劇中でジェームズ・ボンドが潜入するスペクターの秘密研究所として登場した。現在も“007の山”として、多くの旅行者を惹きつけている。
zoom◎岩壁へ突き進む──世界最急勾配ケーブルカーの衝撃
3日間、シルトホルンに通った。
初日、谷底のシュテッヘルベルクに着いたとき、空は厚い雲に覆われ、時折雪が舞っていた。浅い霧が谷を包み込み、アルプスの荒々しい輪郭はほとんど見えない。ポストバスを降り、そのまま新しいケーブルカーへと向かう。「世界最急勾配」――その言葉の持つ響きだけが、どこか現実離れして感じられた。
ゴンドラが静かに動き出す。次の瞬間、正面に巨大な岩壁が立ちはだかった。ほとんど垂直に近い斜面を、キャビンは力強く登っていく。最初の鉄塔に差しかかる直前、下りのキャビンとすれ違った。一瞬の交錯が、このルートの急峻さをはっきりと伝えてくる。新しく追加されたこのルートは、今までのように断崖を避けてギンメルヴァルトを経由する必要はもうない。谷底からミューレンまで、わずか4分。あまりにもあっけなく、私は“空の上の村”に到着していた。
zoomホテルにチェックインして窓の外を見るが、視界は相変わらず真っ白なままだ。ミューレンの村を散策している間も、遠くの山々は深い霧の向こうに隠れている。それでもしばらくすると、次のケーブル駅のあるビルク方向の空にわずかな青がのぞいた。山の天気が、動き始めている。思い切って、さらに上を目指すことにした。
◎雲を抜ける瞬間──ビルクへ向かう空中の旅
ミューレンから、中継地点のビルクへ。
ゴンドラの前面ガラスには細かな水滴がびっしりと付いている。やがて雲の層を突き抜けると、青空と薄雲がマーブル模様のように広がった。振り返れば、雪に覆われたミューレンの村が小さく遠ざかっていく。左の窓に目をやれば、空へ突き上げるような岩峰。
外では強い風が吹いていたのだろう。強風時でも安定した運行が可能なフニフォー式のロープウェイだけに、キャビンはしっかりと安定している。それでも、ビルクに到着する直前の数秒間、身体がふわりと宙に浮くような感覚に包まれた。その不思議な浮遊感を覚えたのは、この初日の乗車だけだった。
約5分で、標高2677メートルのビルクに到着する。頭上は晴れているものの、背後のユングフラウ三山の方向にはいまだ厚い雲が横たわっていた。
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◎霧の中に現れる007の舞台、ピッツ・グロリア
その先にあるシルトホルン山頂が深い霧に包まれていることは、ミューレン駅のモニターで確認していた。それでも、さらに上へ向かう。ビルクから山頂までは、再び約5分の空中散歩だ。
キャビンは白い霧の中へと吸い込まれていく。やがて、その奥からぼんやりとした巨大な影が浮かび上がった。円形の建物――ピッツ・グロリア。映画『女王陛下の007』で、敵のアジトとして登場した場所だ。見覚えのあるそのシルエットが霧の中から現れた瞬間、映画の記憶がよみがえった。
zoomシルトホルン駅に着くと、展望レストランの窓の外には360度、真っ白な風景が広がっていた。ユングフラウ三山はもちろん、周囲の山並みもまったく見えない。空と雪、霧の境界さえ曖昧で、自分が標高2970メートルの山頂にいることすら忘れてしまいそうだ。映画『女王陛下の007』で、この場所が秘密基地の舞台となったことにも思わず納得してしまう光景だった。
晴れる気配はどこにもない。しかし、その圧倒的な白さに包まれていると、雲の向こうに隠れた絶景への期待は、かえって膨らんでいく。名残惜しさを胸に、初日はそのまま山を後にした。
◎雪をまとった“もうひとつのロープウェイ”が示す未来
帰りのゴンドラでビルクへ近づくと、向かって左側の待機スペースに、雪をまとった真新しいキャビンが静かに収まっているのが見えた。
zoomこのロープウェイこそが、2日後に本格稼働を迎える新線だ。それが意味するのは、シルトホルンへの新しいルートの全線の完成、すなわち「SCHILTHORNBAHN 20XX」プロジェクトの総仕上げである。山頂の絶景には出会えなかったものの、新しい時代の幕開けを告げるキャビンだけは、霧の中で確かな存在感を放っていた。翌日への期待を胸に、ミューレンへと戻った。
→ “007の山”シルトホルンを旅する[後編]完成した新ロープウェイとアルプス体験の進化 を読む
取材協力:Schilthorn Piz Gloria
