旅の扉

  • 【連載コラム】歩く、撮る、書く。とっておきの風景を探して。
  • 2025年4月28日更新
フォトグラファー、ライター、編集者:小坂 伸一

ポーランド・黄金の秋に包まれて・後編

静けさと風格が刻まれたジュブル(ヨーロッパバイソン)の横顔。zoom
静けさと風格が刻まれたジュブル(ヨーロッパバイソン)の横顔。
奇跡と再生の物語——ヨーロッパバイソンに出会う旅

かつて乱獲により絶滅の淵に追いやられたヨーロッパ最大の野生動物・ジュブル(ヨーロッパバイソン)。その姿が再びポーランドの森に現れたのは、人と自然の関係を見つめ直すための長い時間の結果だった。静まり返った森で出会った野生の姿は、ただ美しいだけでなく、私たちが失いかけたものの象徴でもあった。

ラベルにジュブルが描かれた「ズブロッカ」。瓶の中には、ビャウォヴィエジャの森で採れた1本のバイソングラスが静かに沈む。zoom
ラベルにジュブルが描かれた「ズブロッカ」。瓶の中には、ビャウォヴィエジャの森で採れた1本のバイソングラスが静かに沈む。
ジュブルという名の記憶

ヨーロッパ最大の陸生哺乳類「ヨーロッパバイソン」。ポーランドでは「ジュブル(Żubr)」の名で親しまれています。そのたくましい姿は、スペインのアルタミラやフランスのラスコーといった旧石器時代の洞窟壁画にも描かれており、少なくとも14,000年前から人と自然の記憶に刻まれてきました。世界史の教科書に登場したあの壁画の牛、それがジュブルなのです。ポーランドを代表するフレーバード・ウオッカ「ズブロッカ」のラベルにもジュブルが描かれているのをご存知でしたか?

かつてヨーロッパ全土に広く生息していたジュブルは、乱獲や生息地の減少により激減。1000年前には各地で見られたものの、第一次世界大戦前にはおよそ700頭にまで数を減らしました。そして1919年、ビャウォヴィエジャの森に生息していた最後の1頭が密猟により命を落とし、野生のジュブルは絶滅してしまったのです。けれども、希望はつながれました。飼育下で生き残っていた54頭のうち、繁殖に適した12頭が選ばれ、20年以上にわたる人工繁殖を経て、1952年にはビャウォヴィエジャの森にジュブルが帰ってくることとなりました。
ビャウォヴィエジャ保護区のビジターセンターに展示されたジュブルの骨格見本。zoom
ビャウォヴィエジャ保護区のビジターセンターに展示されたジュブルの骨格見本。
ジュブルは森の再生を支える

「ヨーロッパバイソン」は、生態系における「キーストーン種」とされています。これは、個体数が少なくとも、その種が属する生物群集や生態系に及ぼす影響が極めて大きい生物種のこと。たとえばジュブルが森に戻ることで、草木の生え方が変わり、そこに暮らす昆虫や鳥、小型哺乳類たちの暮らしにも広く影響が及ぶのです。

そのためジュブルの再導入(再野生化)は、単に絶滅を免れた希少種の保護にとどまらず、森全体の再生にもつながる重要な取り組みとされ、再導入を行う国も増えているようです。帰国後に知ったことですが、近年では2022年にイギリス、2024年にはポルトガルでも再導入が行われたとのこと。ジュブルの歩みは、失われた自然との関係を取り戻す“再生の物語”として、今も静かに続いています。
ビャウォヴィエジャ保護区で飼育されているジュブルも森の記憶を宿している。zoom
ビャウォヴィエジャ保護区で飼育されているジュブルも森の記憶を宿している。
野生のジュブルに出会う朝

ビャウォヴィエジャでは、「野生のジュブル」を観察するために、遭遇率9割以上といわれるガイドツアーに参加しました。

まだ夜が明けきらない早朝、ホテルを出発。薄暗いビャウォヴィエジャの町を、バスは静かに進んでいきます。しばらくはヘッドライトに照らされた民家や道路脇の木々が見えていましたが、森が途切れ、開けた草地に差しかかったところで、ガイドが赤外線温度センサー付きのスコープを使い、ジュブルの姿を見つけました。

バスを降り、ガイドの先導で静かに草地を進みます。野生動物を刺激しないよう距離を保ちながら、そっとその姿を観察しました。貸し出された双眼鏡から望遠レンズ付きのカメラに持ち替え、2頭のジュブルのシルエットを捉えてシャッターを切りましたが、夜明け前の薄闇のなかでは、はっきりとした画像は残せませんでした。それでも、野生のジュブルが確かに目の前に存在したという事実は、言葉にならないほどの感動として心に刻まれました。

ジュブルに最も近づける場所へ

その後は、ジュブルを飼育するビャウォヴィエジャ保護区へ移動。ここでは間近でその姿を観察することができます。隆起した肩や、頭から背中にかけての長くたくましい体毛など、出会ったジュブルはまさに想像どおりの風貌でした。保護区にはジュブルのほかにも、ポーランドの在来種であるコニック馬、ヘラジカ、シカ、イノシシ、オオカミなどが自然に近い環境で飼育されており、それぞれが悠々と過ごす姿も印象的でした。
奇跡の一瞬。木漏れ日の差す林の奥、影のように浮かび上がったジュブル。zoom
奇跡の一瞬。木漏れ日の差す林の奥、影のように浮かび上がったジュブル。
そして、奇跡の再会

ビャウォヴィエジャ国立公園内のハイキング最中に奇跡が起こりました。公園の外で待機していたドライバーから、野生のジュブルの目撃情報が入ったのです。私たちはすぐにその場所へ向かい、ガイドとともに周囲の木立の中を注意深く探します。しばらく姿は見つけられず諦めムードが漂い始めましたが、ガイドが直感を頼りに林に分け入ったその先で、ついにジュブルを発見。木々の隙間からあの大きなシルエットが浮かび上がった瞬間、私は息を呑んでその姿を見つめました。

早朝のガイドツアーのときと同様、今回も距離を保ち、ジュブルを刺激しないよう細心の注意を払いながらの観察でした。私は望遠レンズを使って、そっとその姿をファインダーに収めます。レンズ越しに見えたジュブルは、まるで森の化身のように静かに佇んでおり、その威厳ある姿が心に深く焼きつきました。
悠久という言葉を視覚化したような、巨木(カエデ)とその幹を覆い尽くす苔。zoom
悠久という言葉を視覚化したような、巨木(カエデ)とその幹を覆い尽くす苔。
原始の森で、時を超える旅を

1万年以上も姿を変えていない原生林「ビャウォヴィエジャの森」。
その森の象徴ともいえる「ヨーロッパバイソンに出会う旅」は、自然を愛する人にとって、まさに“聖地巡礼”のようなものです。日常では味わえない、どこか原始的で厳かな空気を、全身で感じることができる―。

そんな特別な時間が、この森には流れています。

私が訪れたのは、黄金色に染まった秋の森でしたが、ビャウォヴィエジャは春夏秋冬、季節ごとにまったく異なる表情を見せてくれる場所でもあります。次の旅の候補に、ぜひこの原始の森を加えてみてはいかがでしょうか。そこには、かけがえのない時間が流れています。


取材協力:ポーランド政府観光局
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Photo&Text:小坂 伸一
フォトグラファー、ライター、編集者:小坂 伸一
海外旅行ガイドブックの編集長を経て独立。現在はフォトグラファー、ライター、編集者として、企画立案から取材、撮影、執筆、編集までを一貫して手がける。旅や文化、自然をテーマにしたコンテンツ制作を得意とし、書籍やパンフレットなどの紙媒体からウェブまで、幅広いジャンルで活動している。映画やドラマのロケ地を巡る旅をライフワークとしており、雑誌連載などを通じて、その魅力を発信中。

小坂 伸一 公式ウェブサイト「La BUSSOLA」:https://www.la-bussola.info
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