旅の扉

  • 【連載コラム】歩く、撮る、書く。とっておきの風景を探して。
  • 2025年4月28日更新
フォトグラファー、ライター、編集者:小坂 伸一

ポーランド・黄金の秋に包まれて・前編

幹にびっしりと生えた苔も、悠久の時を刻む巨木も、この森が育んできた豊かさと記憶の証。zoom
幹にびっしりと生えた苔も、悠久の時を刻む巨木も、この森が育んできた豊かさと記憶の証。
時間が眠る森へ — ビャウォヴィエジャの森を歩く

ポーランド東部、ベラルーシ国境に広がる「ビャウォヴィエジャの森」は、ヨーロッパ最後の原生林と呼ばれる場所。数百年を生きる木々、朽ちた倒木さえもそのままに残る森には、人間の時間とは異なるリズムが流れている。旅人たちの記憶をたどりながら、この静謐な森の中へ、秋のしっとりとした空気とともに足を踏み入れた。

森の中を静かに続く道を、褐色の落ち葉が静かに彩る。黄金色の葉の間から差し込む柔らかな光が、季節の深まりを感じさせる。zoom
森の中を静かに続く道を、褐色の落ち葉が静かに彩る。黄金色の葉の間から差し込む柔らかな光が、季節の深まりを感じさせる。
黄金の秋の森で

「ポーランド」という響きを耳にするたび、私の胸には静かに一枚の写真が浮かび上がります。秋深まる森の中、落葉が地を覆い尽くし、琥珀色の絨毯となって広がる風景。その中心に、仰向けに寝そべるひとりの男性サイクリスト。長い旅をともにしてきた自転車がそっと寄り添い、彼は高く抜ける空を見上げています。その表情には、孤独ではなく、安堵が宿っていました。まるで、自然の懐に抱かれているように—。

被写体は、二十数年来の友人であり、私が深く敬愛する冒険者のステーヴ・シールさん。そしてその瞬間を捉えたのは、旅のパートナーでもある奥様のエミコさん。彼らは1989年の年の瀬にオーストラリアを出発し、自転車で北米、南米、アフリカ、ユーラシア大陸をめぐる旅を続けていました。10年にわたる旅の途上、2010年10月、ポーランドの森で撮影された一枚です。

それから十数年を経た今、私は初めてその地を訪れました。季節は彼らと同じ、秋。ポーランド語で「ズウォタ・イェシェニ(Złota Jesień)」、黄金の秋と称される美しい季節です。あの写真がポーランドでの旅を象徴する一枚として選ばれた理由が、今では痛いほどわかる気がします。

「10月半ば、日中の気温は5度、夜はマイナス5度まで下がった。落葉が舞う森の中で何度も野宿をした。あれは自転車の旅というより、時間旅行をしているようだった。自然が怖いほど美しかった。」
そんな言葉が、彼らの日に焼けた笑顔と一緒に鮮明に蘇ってきました。
ホテルのガラス越しに広がる、ワルシャワ中央駅周辺の風景。右手には、“スターリンからの贈り物”——文化科学宮殿が静かに佇む。zoom
ホテルのガラス越しに広がる、ワルシャワ中央駅周辺の風景。右手には、“スターリンからの贈り物”——文化科学宮殿が静かに佇む。
“ヨーロッパの心臓”ポーランドへ

「ヨーロッパの心臓」と称されるポーランド。中央ヨーロッパの一国という知識を持っていても、その位置を正確に説明できる人は案外少ないかもしれません。私自身もそうでしたが、『ナショナル・ジオグラフィック』の書籍で読んだ一文に深く納得しました—「ユーラシア大陸の西端・ポルトガルのロカ岬と東端・ロシアのウラル山脈、北端・ノルウェーのノールカップ岬と南端・ギリシャのテナロン岬を結ぶ東西・南北の線が交差するのが、ポーランドの首都ワルシャワ近郊である」と。なるほど、まさにヨーロッパの“中心”に位置する国です。

ポーランドは、北部がバルト海に面し、ロシア(カリーニングラード)から時計回りにリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、スロヴァキア、チェコ、ドイツと七つの国に囲まれています。国名「ポルスカ」は「平原」を意味し、国土の大半をなだらかな平野が占めています。
右上から時計回りに、鮮やかな手仕事「二重織り」、静けさ漂う木造モスク、荘厳なビャウィストク大聖堂、華やかなブラニツキ宮殿。zoom
右上から時計回りに、鮮やかな手仕事「二重織り」、静けさ漂う木造モスク、荘厳なビャウィストク大聖堂、華やかなブラニツキ宮殿。
東の果ての豊穣の地、ポドラシェ地方

ポーランドの北東端に広がるポドラシェ地方は、自然と文化、そして多様な民族の歴史が交差する豊饒の地です。リトアニア、ベラルーシ、ロシアと国境を接するこの地域は、古くから東西の文化が行き交う交差点となり、独自の風土と静けさをたたえています。

そして、今回の旅の起点となるのは、ポドラシェ県の県都ビャウィストク。約30万人が暮らす北東部最大の都市で、行政や経済の中枢を担っています。「ポーランドのヴェルサイユ」と呼ばれるブラニツキ宮殿をはじめ、ビャウィストク大聖堂や聖ロッホ教会など、壮麗な建築物が市内に点在し、この街の歴史的な厚みを感じさせてくれます。

多様性を抱く街、ビャウィストク

ビャウィストクは人工言語エスペラントを生み出したルドヴィコ・ザメンホフの故郷としても知られています。また、タタール人の子孫が暮らしており、木造のモスクが今もその地に根付いています。タタール料理を楽しめるレストランもあり、地域の民族や宗教の多様性を今に伝えています。

さらに、この地方には、手仕事の伝統も息づいています。とりわけ注目したいのが、ポドラシェ独自の織物文化である「二重織り」です。色と模様を反転させながら織り上げるこの技法は、表と裏で異なる文様が浮かび上がるという巧みな構造を持ち、地域の暮らしや風土を反映した美しい意匠が特徴です。現代においても地元の工房や民芸館などでその伝統が大切に受け継がれ、訪れる人々を魅了しています。

豊かな自然に包まれたこの土地には、人々の営みと文化が静かに息づいており、訪れる者に静謐で奥深い時間をもたらしてくれる場所です。
木々に包まれたビャウォヴィエジャ国立公園のゲート。その造形は、静かに森の物語を語りかける。zoom
木々に包まれたビャウォヴィエジャ国立公園のゲート。その造形は、静かに森の物語を語りかける。
時間が眠る、ビャウォヴィエジャの森へ

ビャウィストクの街を後にし、さらに南東へ向かうと、車窓の風景は次第に人の営みの気配を失い、森の存在感が増していきます。目的地は、ベラルーシとの国境をまたいで広がる「ビャウォヴィエジャの森」。総面積は1,500㎢に及び、そのうち約625㎢がポーランド領に含まれています。ヨーロッパに残された最後の原生林として、ポーランド側は1979年、ベラルーシ側は1992年にユネスコ世界遺産に登録されました。ポーランド国内で唯一の世界自然遺産として、その価値が広く認められています。

この森が原初の姿をとどめてきた背景には、かつてロシアの歴代皇帝たちの狩猟地として、20世紀初頭まで特別に保護されていた歴史があります。一般の立ち入りが厳しく制限されていたことで、人の手が加わることなく、森の生態系は長い年月をかけて守られてきました。

森の中には、樹齢数百年の木々がそびえ立ち、地を這う苔や倒木からは新たな命が芽吹いています。哺乳類や鳥類、昆虫、苔や地衣類、植物に至るまで、あらゆる命が複雑に関わり合いながら共存しており、原始のままに近い生態系が残されています。多様な生命に満ちたこの森は、訪れる人にとって、遥か昔の地球の姿を垣間見るような、貴重で神秘的な体験をもたらしてくれます。
巨木、落ち葉、苔、そして小さなきのこ――すべてが、この森が紡いできた命の記憶。zoom
巨木、落ち葉、苔、そして小さなきのこ――すべてが、この森が紡いできた命の記憶。
黄金の秋に原始の森を歩く

ビャウォヴィエジャの森のうち、およそ6分の1(10,517ヘクタール)は国立公園として保護されており、その中心部にある特別保護区は厳格な立ち入り制限のもとで守られています。観光客が足を踏み入れるには、ライセンスを持つガイドの同行が必要です。

あいにく小雨の降る天気でしたが、森に一歩足を踏み入れると、湿った空気の中で黄葉した木々がぼんやりと浮かび上がり、全体がやわらかな光に包まれていました。厚い雲に遮られた空からは直接の陽射しはありませんでしたが、葉を透けてわずかに届く光が、森を幻想的な表情に変えていたのです。

足元には、黄緑から鮮やかな黄色、そして黄味がかった茶色へと色を変える落ち葉が厚く積もり、雨に濡れてしっとりと輝いていました。歩を進めるたび、静けさと湿り気を帯びた空気が肌に感じられ、原始の森に足を踏み入れた実感が胸に広がります。

森の神秘的な表情に触れる

私たちが進んだのは、最低限整備されたトレイルでしたが、一歩脇に逸れると、すぐに人の手が入っていない自然が広がっていました。森を歩いていて気づいたのは、倒木や落ち葉の多さです。通常の公園では撤去されがちな朽ちた木も、この森ではそのままにされています。それは、倒木が昆虫や菌類、バクテリアの棲み家となり、森の生態系の維持にとって欠かせない存在だからです。中には、絶滅の危機に瀕している種も少なくないと、ガイドが教えてくれました。

原初の森に深く分け入るほどに、自然が見せる表情はますます多彩に、そして神秘的になっていきます。この森では、手つかずの自然がいつまでもその姿を保ち続けられるように。そんな営みが静かに、しかし確かに続けられているのです。

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後編では、この森の象徴ともいえる存在・ヨーロッパ最大の野生動物、ジュブル(ヨーロッパバイソン)との出会いを綴ります。

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取材協力:ポーランド政府観光局
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Photo&Text:小坂 伸一
フォトグラファー、ライター、編集者:小坂 伸一
海外旅行ガイドブックの編集長を経て独立。現在はフォトグラファー、ライター、編集者として、企画立案から取材、撮影、執筆、編集までを一貫して手がける。旅や文化、自然をテーマにしたコンテンツ制作を得意とし、書籍やパンフレットなどの紙媒体からウェブまで、幅広いジャンルで活動している。映画やドラマのロケ地を巡る旅をライフワークとしており、雑誌連載などを通じて、その魅力を発信中。

小坂 伸一 公式ウェブサイト「La BUSSOLA」:https://www.la-bussola.info
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