旅の扉

  • 【連載コラム】こだわり×オタク心
  • 2023年1月22日更新
arT'vel -annex-
コラムニスト:Tomoko Nishio

英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2022/23『ラ・ボエーム』 19世紀末パリの「気温」までも伝える、イタリアオペラ珠玉の名作を

©2020 ROH. Ph by Tristram Kentonzoom
©2020 ROH. Ph by Tristram Kenton
英国の舞台芸術の殿堂、英国ロイヤル・オペラ・ハウスで上演されたオペラやバレエを映画館で楽しめる「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2022/23」は、2023年1月20日からプッチーニの名作オペラ『ラ・ボエーム』を上映している。物語は19世紀末のパリを舞台に、カルチェ・ラタンの屋根裏部屋で暮らす、「金はないが夢はある」4人の若き芸術家たちとその恋人達が、やがて現実に直面していく、古い写真をめくるような青春譚だ。どこか切なく懐かしく、甘酸っぱい味わいのあるこの物語は見る者の年齢、その時代の想いや経験に応じて訴えかけてくるものがあり、それゆえだろうか、プッチーニのオペラの中では1896年の初演以来、とくに愛され続けている名作である。



また昨今のオペラは、本来歴史物である作品の舞台を現代に移す「読み替え」も多く行われているが(もちろんそれはそれで面白い)、今回英国ロイヤル・オペラ・ハウスで上演されているこの『ラ・ボエーム』の舞台は原典に沿ったもの。衣装などはもちろん、ガラス天井の道路「パサージュ」といった舞台セットにも19世紀末のパリが生き生きと映し出されている。さらにこの『ラ・ボエーム』はフランス人の小説家アンリ・ミュルジェールの小説『ボヘミアン生活の情景』を原作としていることから、物語にも当時の風俗などのリアリティがあるのだ。さらに主演ロドルフォ役は、世界的に人気のテノール歌手、フアン・ディエゴ・フローレス。19世紀末パリに惹かれる歴史ファンやオペラファンはもとより、オペラ入門としても非常に楽しめる、おすすめの作品である。

©2020 ROH. Ph by Tristram Kentonzoom
©2020 ROH. Ph by Tristram Kenton
■物語を貫く「パリの寒さ」

とにかくパリの冬は寒い。0度前後の冷蔵庫のような気温のなか、街も建物も石なので底冷えがする。個人的な経験で恐縮だが、それこそ大昔の学生時代の初の海外訪問が2月のパリ。到着して初めて入った安宿が6階の屋根裏で、窓からは灰色で重い雲ばかりの空の下に煙突が並ぶパリの屋根の風景が広がるのが見える。部屋に暖房は付いてはいたが効きが悪く、日本とは違う底冷えする寒さにコートを着込み、かじかむ手をこすりながら「フランス語で『ヒーターが暖かくなりません』ってなんて言うんだ?」と考えながら会話のテキストをめくっていた。初パリの想い出である。

このオペラは、まさにその「初パリ」の世界で、「裏の主人公」はパリの寒さと言ってもいい。カルチェ・ラタンの安下宿の屋根裏部屋で共同生活を送る詩人ロドルフォや画家マルチェッロらの4人の若者たちは薪を買う金もなく、凍てつく部屋で寒さに震えながら外套を着こみ、火の気のないストーブの前で手をこすりながら、互いに悪態をつき冗談を飛ばし談笑し、この芸術の都で一花咲かそうという夢を描いている。家賃の徴収に訪れた大家を煙に巻き、なけなしの家賃をクリスマス・イブの晩餐につぎ込みぱーっと騒ごうと計画する。仲間とともに騒ぎながら、金がないといいながらもその日暮らしの自由を楽しんでいるのだ。
©2020 ROH. Ph by Tristram Kentonzoom
©2020 ROH. Ph by Tristram Kenton
そうした日々のなかでロドルフォとお針子のミミと出会い、一目で恋に落ちる。打算も何もない、本当に純粋に惹かれあう恋だ。底冷えのする寒さの中で、お互いの存在が温もりとなり暖となり、心に優しい希望の灯をともす。灰色の空の下にミミに贈ったピンク色のボンネットや祝祭のワイン、華やかなパリのパサージュの世界がキラキラと輝き、二人の恋を祝福するのだ。

寒くとも心が満たされていればそれは二の次。
宿が寒くても、「パリに来た!」という思いが心を満たすのが旅でもあるように。
©2020 ROH. Ph by Tristram Kentonzoom
©2020 ROH. Ph by Tristram Kenton
しかし現実は甘くない。ミミが重い病だとわかると、ロドルフォは次第にミミから離れたいと思うようになるのだ。貧しい生活の中、病を抱えた恋人が重荷にしか感じられなくなっていく。

2人は確かに愛し合っている。

それは揺るぎのない現実であるが、ミミから逃げたい、という思いもまた、ロドルフォの現実なのだ。「君に薬を買ってやれない。責任を取れない」というロドルフォの言い訳が空々しくも思えるが、優しいミミは別れることを選択する。貧困と寒さの前に愛は無力だ。
©2020 ROH. Ph by Tristram Kentonzoom
©2020 ROH. Ph by Tristram Kenton
■プッチーニの繊細な音楽も魅力。「人生」という旅路のポケットにそっと忍ばせておきたいオペラ

この『ラ・ボエーム』はまた、プッチーニの心理描写や風景描写を綴る繊細なメロディも魅力の一つである。派手に心に残る曲、というよりは、舞台上の歌手の演技やドラマとともに、しんしんと染み入るような、とてもやさしい味わいがあるのである。

ロドルフォとミミとの出会いで歌われるロドルフォのアリア「冷たい手を」、ミミのアリア「私の名はミミ」はそれぞれテノールやソプラノの名曲の一つであるし、マルチェッロの恋人ムゼッタが歌う「私が街をあるけば」は奔放で明るく、ロドルフォやミミらとの性格の違いを浮き立たせる。その2人が別れを決める「さらば甘い目覚めよ」が、切なく、やるせない。「冬は寒いから、春が来たら別れよう」「ずっと冬が続けばいいのに」という歌詞は、あのパリの底冷えする冬を思うにつけ、胸が締め付けられる。実体験と物語世界のリンクもまた、旅と芸術作品、双方に深みを与えてくれるのである。

物語の最終幕で、ミミはロドルフォやマルチェッロら、仲間たちと再会する。仲間たちは病気のミミのために、心を尽くし奔走する。このミミの存在が先々の彼らに何をもたらすのか…。凍てつくパリを舞台にしたドラマではあるが、そこで通い合う人々の心は確かに温かく、優しい。そして哲学者の友人コッリーネの歌う「古い外套よ」は、「若き日」という古い衣を脱ぎ捨て次へと歩み出す時が来る、決別の思いも感じられるのである。

寒さ、温かさ、人の温もりや思いやり、失敗や失望など、人生という「旅」の途上でふと語りかけてくる、そんな味わいもまた、この物語にある。心の片隅に、ポケットにそっと忍ばせておきたいオペラでもある。
©2020 ROH. Ph by Tristram Kentonzoom
©2020 ROH. Ph by Tristram Kenton
■上映情報

英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2022/23
『ラ・ボエーム』

【音楽】ジャコモ・プッチーニ
【台本】ジュゼッペ・ジャコーザ
ルイージ・イッリカ
(アンリ・ミュルジェールの小説「ボヘミアン生活の情
景」より)
【指揮】ケヴィン・ジョン・エドゥセイ
【演出】リチャード・ジョーンズ
【再演演出】ダニエル・アーバス
ロイヤル・オペラ合唱団(合唱指揮:ウィリアム・スポールディング)
【出演】マルチェッロ:アンドレイ・ジリホフスキー
ロドルフォ:フアン・ディエゴ・フローレス
コッリーネ:マイケル・モフィディアン
ショナール:ロス・ラムゴビン
ベノア:ジェレミー・ホワイト
ミミ:アイリーン・ペレス
パピニョール:アンドリュー・マクネア
ムゼッタ:ダニエル・ドゥ・ニース
アルチンドーロ:ウィン・ペンカルレグ
【上映時間】2時間58分

上映劇場
北海道 札幌シネマフロンティア 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
宮城 フォーラム仙台 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
東京 TOHOシネマズ 日本橋 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
東京 イオンシネマ シアタス調布 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
千葉 TOHOシネマズ 流山おおたかの森 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
神奈川 TOHOシネマズ ららぽーと横浜 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
愛知 ミッドランドスクエア シネマ 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
京都 イオンシネマ 京都桂川 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
大阪 大阪ステーションシティシネマ 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
兵庫 TOHOシネマズ 西宮OS 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
福岡 中洲大洋映画劇場 2023/1/20(金)~2023/1/26(木)
※上映時間は劇場へ直接問い合わせ。

英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2022/23公式サイト
http://tohotowa.co.jp/roh/movie/?n=la_boheme2022
コラムニスト:Tomoko Nishio
旅行業界・旅&芸術文化ライター、動物好き。旅行業界誌記者・編集者を経てフリーの旅行ライターに。南仏中世と「三銃士」オタク。歴史とアートに軸を置きつつ、絵画、バレエ、音楽、物語、映画、漫画のロケ地・聖地巡り、海外旅行や小さなお散歩まで、様々な視点で旅を発信。「旅」は生活のなかにもあり。

arT'vel -annex- http://artvel.info/
Twitter:https://twitter.com/kababon
note ポートフォリオ:https://note.com/tomo_nishi/n/n52b6bd7041e7
risvel facebook