旅の酒場
いわゆる「ナンパ」というのは経験ありませんが、旅の酒場で一杯やってるうちに、いつの間にか女性と意気投合していた。というケースはあります。何だかすごくフィーリングが合う。会ったばかりなのに会話が弾む。話しても話しても話題がつきない。理想的なパターンです。
トイレから戻ってきた女の子の耳元から付けたばかりのフレッシュなフレグランスがゆらゆらと漂ってきたりしてね。こうなったらもう制御はできません。香りが脳をどろどろ溶かしていきます。うむ。だいたいにして気が合う女性とは香りの好みが一致するというのが僕の持論です。
逆にだな。気が合うと思ってたのが独り善がりだった。という悲しいパターンもあります。あれはモンテカルロのバーだったっけ。バーカウンターでふたりぶんの酒を買って、帰って来たら、女の子の姿がない。代わりに、代わりにと言っちゃ何だけど、その席に見知らぬ男が座っている。
「ねえ、この席に女の子が座ってたの知らないかい?」
「女?どんな女?」
「えーと、イタリア人。小柄。ブラウンヘア。目の色も茶色だったと思う。」
「あんた、酒場でイタリア人の女の子をひとりにしちゃあダメだよ。」
男は長身でほっそりした体型の白人で、真夜中だというのに丸ぶちの黒いサングラスをかけています。歳の頃は僕と同じぐらいでしょうか。肌は白粉を施したかのごとく白く、全体として神経質そうな雰囲気をまとっています。細身のパンツにロング丈のジャケット。鋭角に刈り込まれた斬新なヘアスタイル。全身をモノトーンでまとめた装いはまるでファッション誌からそのまま飛び出してきたみたいです。
「ねえ、よかったらこの酒飲まないかい?ウォッカトニックだけど。ふたりぶん買っちゃったんだ。」
と僕。
「そいつはありがたいね。今夜はツイてる。思わせぶりなイタリア娘のおかげで、タダ酒にありついた。」
独特の訛りの入った英語です。何かを噛み潰しながら喋ってるみたいな発音。
「ありきたりの質問だけどさ、君はどこから来たんだい?ロシア?」
「不正解。ま、近いと言えば近いがね。君はフィンランドについて何か知っているかい?」
「フィンランド。あの、えーと、白夜の?」
男は黙って頷く。
「てことはだな。君は僕が生まれて初めて話をしたフィンランド人だ。」
「それは光栄な。で、君はどこから来たの?」
「トーキョー、トーキョージャパン。」
「トーキョー!日本人かい?こりゃスゲえな。日本人に出会うなんてね。仲間に自慢できる。みんな羨ましがるに違いない。フィンランドじゃさ、日本はちょっとしたブームなんだ。」
と、まあこのようにして、僕とアレックス(というのが彼の名前です。)は旅の酒場で知り合いました。
これが不思議で、何だかすごくフィーリングが合うんだな。会ったばかりなのに会話が弾む。話しても話しても話題がつきません。
結局この夜から3日間、僕とアレックスは朝から晩までずっと一緒に行動しました。美術館とか、観光バスなんかにも乗ったりして、お揃いのTシャツを買ってみたり、カフェでチョコレートタルトをシェアしたり。ビーチで詩を詠みあったり、知らない人が見たら僕らのことをきっとラブラブなゲイのカップルと思ったことでしょう。
外国人ってのはたいていが自分の国のことが大好きで、自国のことを自慢したくってしょうがないって輩が多いんですけど、彼の場合は何だかちょっと自虐的というか、「フィンランドなんて半分ソビエトみたいなもんだよ。」とか言っちゃって、全体として主張が控えめな感じが好印象でした。他のフィンランド人がどうなのかは全然知らないですけど。
最後の日、空港まで彼を送って、ひとりでホテルに帰る時のあの何とも言えない寂しさは今でも忘れられません。何でしょうね。恋人が自分の元を去る時も心はそれなりに痛みますが、これは「痛み」ではなく、うーむ、言うなら「虚無感」です。
ホテルの部屋で、その辺に散らばっているワインやビールの空き瓶や、食べかけのスモークサーモンのパックなんかを片付けていたら、ソファのところに彼の忘れ物を見つけました。他でもない、一緒に買ったTシャツです。せっかくふたりでお揃いで買ったのに、忘れていくなんてね。ま、これで僕がフィンランドに行く口実ができました。このTシャツを届けに行くわけだ。名前がアレックスでヘルシンキに住んでいるという他には何の情報もありませんが、彼を見つけるのはそんなに大変なことではないでしょう。まずはちょこっと気のきいた酒場を見つけて、いつのまにか女の子と知り合うところからスタートです。
というわけで、今日の「行ってみたい。」はフィンランド。特に、長い冬の間、雪の中で眠っていた花や緑や生き物たちが一挙に活動し始める春のフィンランドは国全体がとてもパワフルなエネルギーに包まれるよい時期なんだそうです。
えへへ。今回もほとんどが僕の作り話(モンテカルロなんて行ったことありません。)ですが、アレックスというフィンランド人は実在します。30年ぐらい前にロンドンの酒場で出会いました。現在は音信不通。元気にしてるかな。